フィルムの概念が通じなくなる前に
なにかを撮るという行為について、約3400文字で書き留めておきたい。
それにはまず、自分が1984年に発売されたT70という一眼レフカメラを手にしたキヤノン党であることと、高校1年生まで鉄道写真を撮っていた(所謂、撮り鉄だった)ことを正直に白状しなくてはならない。
ただ、一時は他社のカメラ(α7000など)も併用していたし、いまでも画質に惚れ込んでいるコンデジはRICOHなので、撮影する機材については盲目的な信奉があるとは自覚してないようだ。
スマホの画質が専用機に近づくことは歓迎しており、手軽に美しい記録が残せることには手放しでマンセーだ。北の将軍様が飛翔体の打ち上げを仰いでいる様子はCanonで記録しているが、それは複雑な思いでありマンセーとは叫べない。
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初めて触れたデジタルカメラは1995年に会社で購入したCASIOのQV10という25万画素の機種で、これは低価格かつ汎用的な日本初のデジカメであった。背面の液晶画面(解像度は恐ろしく低い)で瞬時に確認できる仕組みが世界初であり画期的だったのだ。
PCモニターで再現される画像は320×240px(現代ならサムネイルのサイズ)であることもあり、フィルムカメラとは棲み分けられていたことを思いだす。
1997年になってSONYから35万画素のサイバーショットが発売されると、撮影した画像を報告書へ添付するのにも十分なレベルとなり、私生活でもフィルムカメラの出番は減り始めた。画素数の向上よりも、SONYはシャープさとコントラストの豊かさを感じさせる処理が上手だったように思う。
そしてライバルに優位性を発揮できないCASIOは、ひっそりと市場から姿を消すのである。
デジカメ勃興期の1995年からの20数年間で「撮影する」という概念や行為が大きく変わり、それまでの140年間の写真史や写真に関連する産業を一気に過去へと追いやったように感じる。
フィルムを現像して写真をプリントするカメラ屋は殲滅され、ミノルタはSONYにαブランドのカメラ事業を譲渡し、フィルムやプリントを事業の柱にしていた富士フィルムは化粧品や化学の分野に大きく舵を切り、小型から商用までデジタル化の波が一気に波及し、時代が携帯電話からスマホに変わると撮ることは記録だけでなく共有することに結びついてゆく。
まず、撮影記録がアナログからデジタルへ移行したことが、第二次世界大戦に匹敵するようなマインドセットの大事変である。
次の変革は2008年以降に広まったSNSでのデータ共有だが、それは東日本大震災のような意識レベルの変容かも知れない(実際、2011年3月以降にTwitterの登録者が急増しているが)。共有によって「何にでもスマホを向ける」行動や「食べる前に撮る」という儀式も日常的になった。
共有する行為については現在進行形であるので場をあらためるとして、今回は昔話しをする感覚で、戦前とも言えるアナログ(フィルム撮影)からデジタルへの移行について思い返してみたい。
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冒頭で触れたが、中学へ進学する少し前にT70というCanonの一眼レフカメラを手にしていた。ピント合わせこそ手動だが、機械的なダイヤルを廃して液晶パネルで設定する操作は進歩的で、当時、大友克洋先生のイラストが宣伝に使われていた世界観である。近未来的ではあったが、手動で設定できる余地が少ない入門機のT70だった。
同じく前述のとおり鉄道写真を嗜好していたので、フィルムの巻き上げ速度が1秒間に0.7枚では動きのある被写体に向かないこともあり、上位機種のT90(こちらは1秒間に4.5枚を撮影)に食指を伸ばすのは自然な成り行きと言える。
ちなみに、1986年に発売されたT90は樹脂による曲面を多用した流麗なデザインで、EOSシリーズにも影響を与えている…と勝手に思っているし、いまだに名機だったと信じている。
どんどん本題から遠ざかるので、機種の話はここまでにしたい。
つまり要点は、鉄道写真を撮っていて尚かつ1秒間に4.5枚である。
撮影用のフィルムは24枚撮りか36枚撮りであり、撮り終えると物理的に記録することは不可能になる。そのため、走ってくる列車を撮りきるためにはフィルムに数枚の余力が残っていても未使用品に替えて備える必要がある。
また、フィルムにはあらかじめISO100やISO400などの感度が設定されている。ISO感度を下げれば粒子(いまでいう単位面積あたりのピクセル数)が細かくて発色も良いが、露光量が必要なので速いシャッターは切りにくい。ISO400にすると同100に画質は劣るが、天候へ対応しやすくなるという相関がある。カメラにフィルムが残っていても撮影場所の条件で交換することも珍しくなく、やはり撮りきらないフィルムが発生してしまうのだ。
フィルムの値段は1本あたり数百円だが、それをカメラ屋に持っていくと現像の基本料+プリント1枚あたり30円で合計1500円前後が出費となるため、移動費も含めるとコストのかかる趣味だったと言える。
なぜ、そんな鉄道写真を趣味で続けていたかを自戒も込めつつ整理すると、(ネットが無い時代なので)撮影したいと欲する臨時列車の情報を得ることを仲間で競い合い、撮影場所までの道中を楽しみ、そして、お目当ての列車が現れて眼前を通過するときには(雄叫びを上げるのも、むべなるかなの)何とも表現できない高揚感を得ていた、というのが答えだった。
撮影した現場では撮れているか判らず、後日、フィルムを現像してみて上手く撮れていれば喜び、それを同好の士に自慢すれば優越感に浸れる。つまり、撮る前の情報取集から準備、撮影時の一体感を経て、その後の共有で活動が完結するという沼なのだった。(その世界から抜け出ることなく、鉄道学校へ進学した当時の友人は少なくない)
いま思うに、撮っている瞬間の快感は中学生やそこらの坊主(チェリーボーイ)には危険とさえ思えるほどの刺激だったのではないか。そしてそれは、フィルムという限りある物質的なものを瞬時に大量に消費している行為と無縁ではなかったはずだ。
ご存命だった大島渚監督が生前に、地上波のテレビ番組で映画撮影について語っていた内容を鮮明に覚えている。セットやライトを準備し、役者を意のままに操り、ものすごく高価な撮影用のフィルムを消費ていると、その瞬間は射精をしているかのような快感を得ている、と仰っていた。
鉄道写真を撮っていた過去を思い出して自分なりに腑に落ちたので、その言葉が記憶の片隅に残っているのだろう。
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2年前の春に静岡県を訪れていたとき、あと20分もすればSLが近くを通過することが判った。お茶畑にカメラを構える一団が見えたので、たまたま持っていた一眼のデジカメを向けて撮影してみることにした。三脚ではなく手持ちとは言え、待ち構えて列車を撮るなんて何十年ぶりだったろうか。
小型ながら迫力のあるC11型機関車を堪能したが、(密かに期待していた)雄叫びを上げたくなる高揚感が蘇ってくることはなく、帰京するまでの渋滞を想像しては少し憂鬱になったくらいだ。
もちろん、自分に撮りたいという意思が弱かったことは大きいが、撮るという行為が何かを消費することなく、気に入らなければその場で削除して、画角どころか発色やシャープネスも含めて際限なく加工でき、無限に複製可能なデジタルデータを残すことに、アナログと同等の価値を見いだせなかったのかも知れない。
この時代にフィルムカメラの写ルンですが再販されたり、銀塩写真を嗜好する女性が増えていることは、デジタルで便利になったが手放してしまった物質的な価値を再発見しようとするムーブメントに思える。
自分がその世界に戻るかは解らないが、いまでもデジタル一眼でシャッターを押すときは息を止めて入魂してしまう。そして、後からまとめて消去すれば良いのに、都度、データを確認して良好なものだけを本体に記録させている行為は、受け取ったプリント写真すべての仕上がりが成功していることを願った過去と無縁ではなさそうだ。
記録メディアの1GB単価が30円を下回っても、1枚30円のプリント代を気にする呪縛からは逃れられないのかも知れない。アナログの時代も記憶に留めつつ、いつかデジタルに心からのマンセーを叫べるようになりたい。
※ TOP画像は10年前にRICOHで撮影したものです(加工ナシ)
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