湊かなえ「贖罪」を読んだ感想 復讐とか正義とかについて考える
通勤時間往復2時間でaudibleを聴いていますが、最新作は山ちゃんおすすめ湊かなえさんの「贖罪」でした。audibleでは朗読は小池栄子さん。ドラマ化されて母親役が小泉今日子さんだったらしいですが、小池栄子さんでも良かったのかも、私は小池栄子さんの声とか演技とか好きです。7時間46分の朗読はちょうど4日間で聴き終わりました。
娘をレイプされ殺されるという、母親の立場では史上考えられる最悪の状況で捕まらない犯人。母親はその場に居合わせた娘の4人の友達の少女たちに対してだけでなく、この世の全てを呪う。
「あなたたちを絶対に許さない」
「その罪を償ってくれ」。
物語は殺害された娘の友達4人のオムニバス形式で進みます。それぞれの個性が際立ち、それぞれの人生が4章生き生きと、そして生き生きとしている分だけ残酷に描かれ、最後、全ての細かい伏線が回収されていくのが圧巻です。
母親の復讐劇が悲劇であることには間違いありません。
つい最近、X(Twitter)でみたツイートを思い出しました。7歳の娘をレイプされ殺されたという、母親(マリアンヌ)が法廷に銃を持ち込み、犯人を自分の手で射殺したという1981年の事件の映画の一場面を投稿し、あなたはどう思う?と。
ほぼ全ての意見は
Justice was served 正義は果たされた
This is accountability これが責任を取るということ
I would say she was justified 彼女には正当な理由がある
I don’t blame her one bit. 彼女を1ミリも責めない
ここでのキーワードは復讐に対して、それがJustice=ジャスティス=正義であるかどうか。多くの人は犯人を射殺したマリアンヌに同調、拍手していました。
しかし。
復讐と正義。
私は復讐は正義ではないと思います。
不幸が起きた時の復讐したいという感情、恨みや呪い、という負の感情や行動は負のスパイラルを生むだけで、残念ながら正義と呼べるような望むべき高尚な結果に結びつかないのではないかと思います。いや、一体全体、人は何をもって正義と高らかに叫ぶのでしょうか。マリアンヌがレイプ犯を自分の手で射殺するのも、イスラム教を信じる若者たちが聖戦と言って自爆テロを起こすのも、イスラエルがガザに爆弾を落とすのも、全部ジャスティス=正義という名を借りた復讐という要素を含んでいる。Eye to eye= 目には目を歯には歯をという報復律(ハンムラビ法典)(紀元前1792年から1750年)の頃から全く倫理観が進歩していないということになります。
ニュースや新聞で目にする、家族を殺された遺族が口にする犯人への
「極刑を望む」
「死んで償ってほしい」
「一日も早く、この世からいなくなってほしい」
という言葉たちには裏返しには愛の深さが隠れているもの、だから当然誰にとっても同情してしまう心境になることは間違いありません。しかし、復讐劇が、死刑が、果たして、その憎しみや苦しみを払拭してくれる手段なのでしょうか。結局のところ、「償う」なんていうのは考えようによってはどれも全くあり得ない。
謝って償う→「謝れば済むと思っているのか」
死んで償う→「死ねば済むと思っているのか」
相当な金銭を払って償う→「金を出せば済むと思っているのか」
という究極論のまま償いが終わることはないのです。つまり、贖罪=罪をつぐなえという不幸な感情が不幸のスパイラルを引き起こすだけではないかと、そしてその不幸のスパイラルはすぐに回り回って自分のところに戻ってくるのはないかと思うのです。その不幸のスパイラルの様子、自分のところ(母親自身)に不幸が舞い戻ってくる様子が湊かなえさんの「贖罪」でよく描かれていると思います。
多分、罪への解決策は正義を振りかざすことではないのです。多分、不幸なスパイラルから抜け出すためには、本当に根本的で単純な小さな残された幸せを仁王立ちしてしっかり守ることから、そのキーワードは人それぞれ、例えば、「家族」「友人」「家」「平和」「一緒に」などなど、そして、「許容」なのではないかと思います。
*久しぶりにサムネにシェア画像をお借りしました。tomoさんありがとう。