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モネ「睡蓮のとき」・写真好きが考察する情報量の3つの基準(国立西洋美術館)

クロード・モネ「睡蓮のとき」(国立西洋美術館)
を見に行ってきました。

現場に到着して、、、

最初に率直に、作品と人の多さに驚きました。

一緒に行こうと妻を誘ったのですが、日程が合わず、一人で行くことになりました。
私より美術を嗜(たしな)んでいる妻から言われたのは、印象派は混むよ、特に展示期間終了間際は無茶苦茶混むから気をつけて、とのことで、平日マストとも言われましたが、平日に行っても充分混雑していました。
ちなみに1月17日 金曜日の13時頃に会場に到着しました。

まずは会場に入るまで、チケット購入に30分程度、そこから更に入場するために別の入口から40分程度並びました。
少なくともネットで購入しておけば、最初の30分程度は省けるのかもしれないので、もしこれから行かれる方は、事前にネットで購入した方が良いのでは思います。

会場の中は満員電車並みとまでは行かないまでも、混雑気味の通勤電車並みには混んでいました。
動くのも見るのも、結構大変でした。
東京都写真美術館ぐらいの混雑ぶりをイメージすると、あまりの違いに驚きます。

以下、絵についてです。

情報量についての3つの基準

絵を見て最初に、モチーフの物体としての情報量の少なさに驚きました。
(悪い意味じゃないですよ)
例えば橋を描いて絵があるとして、橋の質感など細かい部分の情報がかなり少ないです。

ただ筆跡が少ないのかというと、むしろ筆をタッチした痕跡には圧倒されます。
モチーフそのもの(例えば金属)の質感ではなく、光や大気などの空気感に筆を細かく使っているのだなと理解しました。

私は写真が好きですが、写真でよく言われるのは、情報量の「多さ」についてです。
情報量の多い写真は誤魔化しが効かず、撮影時に整える必要があるものが増え、結果的にカメラマンの技量が問われます。
そのことに気付いて暫くの間、情報量の多い写真に私は惹かれるようになりました。

情報量の多い写真を撮るカメラマンがエラいとする基準を持っている人が、ごくごく一部ではありますが、昔はいらっしゃいました。
(大昔ですよ)
なので昨今のボケ重視で情報量の少ない写真を、見下す「昭和のオヤジ」は今でも正直、時々います。

モネを見て思ったのは、情報量については「多さ」以外に「細かさ」の基準があるのではないかということです。
細かさといっても、物理的に絵として細かいのかどうか、絵の素人である私にはわかりません。
ただ、少なくとも細やかだということです。

写真の世界で情報量の少ない写真を見下す「昭和のオヤジ」は、情報量が少ないけど情報量が細かいという基準を見逃しているのではないかと思います。
写真において情報量の多い写真とは、ピントの合う範囲が広く、ハッキリと細かく被写体が写っている写真のことです。
今時のミストフィルター(ブラックミスト・ホワイトミストなど、絵を柔らかくするためにレンズの前に付けるフィルター)を駆使して絞りを開けてボケを活かした写真を撮っている人たちは、情報量は少ないけど細やかなんだと思います。
まさかモネの時代からそんなことが試行錯誤されていたなんて、、と思うと、写真好きはもっと絵を見るべきだなと自分を問いただしました。

ただ、そもそも私のような絵の素人が、絵の本質になかなか辿り着けないのは理由がある気がしていて、絵というものが、現実と離れていること(形や色や雰囲気が現実と異なること)に着目して、それを違和感として一度感じてしまったら、それ以上作品の本質に入っていきたくないという、感情的な思考回路にハマるのではないかと思います。
ワープロで字を打てるように、絵も人の顔とかは鑑賞者の好みに合わせた形にできれば、もっと取っ付きやすいと思ったりもしますが、それは絵として本末転倒なんでしょうね。
だったら写真があるよと言われそうだし。
実際モネの凄いところの一つは、筆で光や大気を表現していることのようにも思えるので、私の言ってることはかなり矛盾しているのはわかっているつもりです。

最近訳あって色んな絵の本を読んでおり、ある程度の量の絵を見てきたので、モネの絵も、いい歳してやっと自分の中に入ってきたのだと思います。

この情報量の「多さ」「少なさ」と「細かさ」の扱いは、見る側への気配りとモチーフに向き合う態度から生まれた、覚悟の姿勢だと思います。

あともう一つ、情報には多さと細やかさ以外に、「速さ」と「遅さ」がある気がします。
止まっているモチーフについてでも、そこに向き合うスピードがあって、その早い遅いが鑑賞者が受ける印象に影響するのでは無いかと思います。
写真を撮る人間が絵に魅せられるのは、その「遅さ」にあるのでは無いかと思います。

例えば土門拳氏の、大判カメラで撮られた古寺や仏像の写真に流れるスピードは、とにかく無茶苦茶早いです。
同じ大判カメラ使いでも、入江泰吉氏の写真には、土門拳氏ほどの疾走感は感じません。
(良し悪しはありません)
実際の撮影速度はわかりませんが、寧ろゆったりした空気が流れているように思います。
入江泰吉氏のファンは、そのゆったりした時間の間合いにゆとりを見出して、好きになっているのでは無いかと想像します。

ウジェーヌ・アジェ氏(Eugène Atget)も同じですね。
昔、田中長徳氏がアジェのことを、
アジェの写真には道路の真ん中から撮ったであろう大らかさを写真から感じる。
と言っていたように記憶しています。
(かなり前の記憶なので間違っていたらスミマセン)
それぐらい、今よりはゆっくりなんだなと思います。
ちなみに言ってる田中長徳氏本人は、大判は8×10でもかなり早い人だと感じます。

今、モネの絵の魅力は「遅さ」にあるのではないかと書きましたが、気付いたのは、写真でも「速さ」「遅さ」については、ベテランでも見逃したり見誤ったりすることが多い気がします。
土門拳氏の写真も私が若い頃は、古くてトロい写真だなあと思っていましたが、ある時無茶苦茶早いことに気付きました。
入江泰吉氏も、もしかすると無茶苦茶実は早かったのかもしれません。

その観点から言うと、作品のスピード感は読み取ることがとても難しいのではないかということです。
モネの絵はスピードが「遅い」と評しましたが、モネ自身の描くスピードはもしかすると、早かったのかもしれません。
それは私にはわかりませんが、作品の速度についてはタイムマシン的に後から気付くことも多いので、モネの絵を 10年後に見返して、今より早く感じる時が来るのか来ないのか、楽しみにしています。

鑑賞距離について

美術館はとにかく人が多かったので、絵に近付かないと、人が前を横切ってなかなか見れませんでした。
なので、みんなとにかく近寄って順番に見ており、私も当然そうするものだと思って同じようにしていました。
ところがふと後ろを振り返ると、遠くからわざわざ絵を見ている人がいることに気付きました。
なので、その人たちの横に並んで見てみるとあら不思議、絵の印象、特に立体感や光の感じが近い距離とは違った気がして、色々と納得するものがありました。
確かに写真を鑑賞する時も、言われてみれば色んな距離から見て何かを探そうとするので、同じことを絵でやることをうっかりしたというか、人が多すぎて絵に辿り着くまでに必死で時間もかかるので、そこに気付く、精神的空間的余裕が無かったんだと思います。

鑑賞距離によって絵の印象が変わるのは、大きな発見でした。
後に売店で本が沢山並んでいて、モネの本も何冊か見てみたのですが、絵のタッチがそうなっているようです。
具体的にはパレットの中で絵の具を出来るだけ混ぜないで元の色のままキャンバスに細かくタッチして、キャンバスで色んな色を隣接して描写することによって、遠くから見るとそれらの色が混ざっているように錯覚させて見せているというような内容の説明を読みました。
なるほどなと思いました。

あと、一部説明用に絵を複写したモノトーンの小さな写真があったのですが、モノトーンの方が光に厚みがあるように見えて、それも素敵でした。
ちなみに「アガパンサスの三連画」という絵でした。
まるで田原桂一氏の「エクラ」(Eclats)や「窓」(Fenêtre)のような魅力がありました。

また、集中して見るのとぼーっとして見るのとでも何となく違う気がしました。

体調と作風について

モネは晩年、白内障で視力に苦しんだそうです。

私の師匠、須田一政氏はある時、写真のスタイルがガラッと変わりました。
よく言えば達観した何かを自分の基準にしているように見えた、悪く言えば画面から勢いがなくなった、、のです。
大阪の某ナダール(ギャラリー名)の写真展でプラウベルマキナ67やマミヤ645でのモノクロの作品展を拝見して、この写真をどうやって見たらいいのだろうと、展示会場でも家に帰ってからも相当悩みました。
どうしてこういう写真を撮っているのだろうと、表現としてどう理解したらいいのだろうと、相当考えました。

かなり後になってお体が悪くなってからの写真だと聞きましたが、今回のモネの体調のエピソードから、須田一政氏の写真に繋がりました。
瀬戸正人さん(第21回木村伊兵衛写真賞受賞、ギャラリーPLACE M 開設)が須田一政さんとのトークライブにて、「ピークを作らない写真」と評しておられましたが、そうなったいきさつは、もしかすると体調の変化にあるのではないかと想像します。

ちなみに今の私にとって、「ピークを作らない写真」は目標の一つであり、ほんの少しですが、理解できるようになったのかもしれません。

展示期間について

展示期間は以下の通りです。
ご興味のある方は是非!
混雑などは別として、絵を鑑賞することにおいて、後悔はしないと思います。

最後に

全然関係ない話ですが、PENTAX K-3 Mark III が遂に生産完了になったようですね。
私も持っていました。
欠点は立派にあるものの、素晴らしい機種だっただけに残念です。
K-3 Mark III に敬意を表し、今日はその同系列である、PENTAX K-5 の写真を数点アップしたいと思います。

PENTAX K-5(2024年2月6日 1時40分)


PENTAX K-5(2024年2月6日 6時20分)
PENTAX K-5(2024年2月6日 13時40分)
PENTAX K-5(2024年2月6日 17時40分)
PENTAX K-5(2024年2月6日 23時00分)


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