春の雪(返歌)
東京で、四月に雪が降るなんて。
夜空を見上げながら、思わず独り言。
曇り空から、湿り気をたっぷり含んで溶けかかった雪が、ためらうように降りてくる。
雪と桜。
そんな和歌があったな。
たしか清少納言、枕草子の中の一つだ。二月つごもり、今で言う三月末くらいの、春の兆しが少しある寒い日のこと。歌の名手と名高い殿方からの
「すこし春ある ここちこそすれ」
と下の句だけ書かれた手紙、何か上手いこと上の句をつけて返してみろよ、という挑戦状に
「空寒み 花にまがへて 散る雪に」
寒い空から、花と見紛うように雪が散っていますね、と元ネタの白氏文集をばっちり押さえた返しをしておいて、
「どうせ歌のお友だちが一緒で、清少納言何ほどの者か、と返事を待ちかまえてるのよ。こわーい。」
と良い子ぶってみせる、その余裕。
わたしの好きなエピソードだ。
今日の雪はしっとりとして桜の花ほどの軽やかさはない。花冷えとは言え、さすがに四月の気温、道路にふわりと舞い降りてはすぐ溶けてしまう。ただ溶けるために、次から次から舞い降りるような、そんな雪を見ていると、この二、三ヶ月の出来事が他人の話のように遠くに感じられて、胸の奥にすうっと、安心感をまとった寂しさが落ちてきた。
簡潔に言えば、ひとつの恋の終わり。よくある話だ。恋の始まりの、欠点さえも愛おしく思えていた季節が過ぎ去ると、彼の察しの良さは甘えに、優しさは弱さに、可愛気は頼りなさに変わっていった。秋を迎えた木の葉がそっと色を変えるように。
彼は詩を書いていた。彼の書くものの中にある、稚拙ながらも純粋な何かを感じていたから、多少の欠点なんて気にならないと思っていたし、わたしが生活を支える、くらいの意気込みでいた。でも、一緒に暮らすようになってやがて、わたしは季節がいつの間にか変わっていたことに気づいた。わたしが最も愛していた美点は、関係が近くなることで失われてしまっていた。
わたしが甘やかし過ぎたのかもしれない。もっとわたしを見てほしくて、どこかで頼り続けてほしかったのかもしれない。ただ単に、飽きたのかもしれない。ほんとうに大事なことに限って、その時にはわからない。自分が本当は何を求めていたのか。どうすればよかったのかなんて。
雪はなぜ降るのだろう。
いや、降ることに意味なんてないんだ。わたしたちもそう。上空で生まれて、降り始めた時から、終着点は決まっていた。つかの間、手をつないで、だんだん低くなる空を一緒に通り抜けた。何か意味があるとすれば、ただそれだけ。そして季節が変わればまた、雪は降る。
そうやって、この雪は、繰り返すのだろう。ずっと、この先も。わたしが知らない人たちの間にも、ずうっと。
生まれては、舞い降り、溶けて消えて。
* * * * * *
一夜明けた今は、春らしい朝の光に桜の花が揺れている。すっかり乾いた道を、足早に出勤していく人々。昨夜の雪なんて誰も知らずに。
一日がまた始まる。
(「春の雪」によせて
https://note.mu/htani/n/n7d9dcb117208 )
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