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月記(2021.04)

4月2日。僕はホテルの9Fにいた。本の家の四人の少女が、その身を削りながら、4時間の音楽を演じ続けていた。気づいたら僕は浴室にいた。不気味なほどに統制がとれた七拍子の拍手が、巨大な浴室に鳴り響いていた。

待ちわびた、Maison book girlのワンマンライブ、「Solitude HOTEL 9F」。純然たる感想としては、バカ長 or バカ短の二択なので、ひとまず後者の「めっちゃよかった」のほうを述べておきつつ、せっかくなので、考察的な要素も含めて、すこし書き残しておきたいと思う。

まず、簡単なライブの全容として、ナタリーのライブレポート、そして考察の出発点である、鑑賞直後の僕のツイートを並べておく。

僕が「Solitude HOTEL 9F」を理解するにあたって、最初の道筋になったのが「レコード」というモチーフだった。音楽が「データ」としてイメージされることが当たり前になってきた現代、CDやレコードなどといった物理メディアは、「フィジカルメディア」、もしくは縮めて単に「フィジカル」と呼ばれるようになった。「フィジカル(physical)」という単語は、日本語で示すところの「物理的な」という意味より少し広い意味をもつらしい。スポーツに詳しい人ならむしろより身近であろう、「肉体的・身体的な」という意味がそれにあたる。今回のライブグッズは、歴代CDのアートワークを配したレコード型コースター。アナログな原理で「削る・刻む」といったヒステリックなイメージも彷彿とさせるこのモチーフは、休憩15分のみで4時間歌い踊りっぱなしという、極めて「フィジカル」なこの演目の象徴だったのではないか、というのが僕が抱いた最初の感覚である。

2020年のMaison book girlは、感染症の影響により、有観客ライブをはじめとしたリアルな活動が大幅に制限された。それでも、配信だからこそできることを模索し、特に配信ライブは優れたものを生み出し続けてくれた。いちファンとして感謝しているし、贔屓目を除いても評価され得るものだろう。だが、それらは「配信だからこそ」の表現を追求したものであり、「リアル」の表現の追求という道とは、(優劣がどうという話ではなく、)異なるものであろう。そして、彼女たちが積み上げ続け、いよいよ更に大きな花を咲かせんとしていたのは、「リアル」の場だったのではないだろうか。「Solitude HOTEL 9F」は、刻々と変化し続ける現代において、改めて「リアル」で「フィジカル」な場に根差したうえで、それを見るすべての人に対して、「Maison book girl」という存在を「リアル」に「フィジカル」に刻み付け直す演目だった。この傷跡はそう簡単に消えるものではなく、むしろこの傷跡があるからこそ、これから見つけられるものがある。僕はそう捉えている。

2021年5月30日、「Solitude HOTEL」の開催が発表された。また、現在「LIVE HOUSE TOUR Re:Fiction」が各地で開催されている。この機会に、より多くの人がMaison book girlを知ることを願っている。

僕は、Maison book girlに出会ったことで、明確に世界の見え方が変わったので、みんなそうなっちゃえばいいのに、と常に思っている。



長らくこのテンションでツイッターをやっていた。最初のブロックでだいたい10ツイート相当。noteというやつは便利だ。



カセットプレーヤーを買った。カセットテープに記録された音を聴くなんて、何年ぶりだろうか。僕にとって、カセットテープは「学校の音声教材」のイメージだ。音楽メディアといえばCD、だった僕は、先生がラジカセを担いでくる姿を見ながら、「教育現場も予算とか大変なんだろうな」と思っていた。子供の頃からモノの見方がよくない。カセットの性質なのか、小さいスピーカーの性質なのか、お世辞にも「良い」とはいえない音で、そのノイズの向こうに見えるキラキラとした笑顔をすくい上げる気持ちで聴いた。

販売終了してしまっていることが心苦しくはあるが、自然光を取り入れた商品写真が素敵だったり、過去の(豊富すぎる)グッズ展開を見ることができるので、RAY公式通販ページはぜひとも覗いてみてほしい。5/9 23:59まで一部商品30%オフのセール中だ。



この月記では、おおよそ時系列順に話題を並べているのだが、奇しくもレコード、カセットと、アナログメディアの話題が続いた。僕は言うなればCD世代であり、これらのアナログメディアは、ひとつ上の世代のものというイメージだ。

レコードは父がそこそこの枚数を持っていて、実家のリビングのコンポには、おそらくそれなりにちゃんとしているであろうターンテーブルが接続されていた。しかし僕が子供の頃、父は「ザ・日本のカイシャイン」という感じで多忙を極めており、ゆっくりレコードを楽しんでいる姿は殆ど記憶にない。ターンテーブルはアクリル製のカバーで覆われており、そこを土台として雑然と物が積み重なり、地層が形成されていた。真剣にレコードとCDを聴き比べたのは大学を卒業したあとだった。父もその頃には整頓する余裕ができていたのか、いつの間にか地表に現れていたターンテーブルを使わせてもらい、父が青春を共に過ごした、ほどよく年季の入ったレコードたちを、CD版を用意して聴き比べ続けた。ほぼ同じ環境から音を出しているというのに、確かに音は違っていた。父に「違うね」と言ったら、「違うよね」と返してきた。ここで「レコードのほうが良いでしょ?」と言ってこなかったあたりに、父も丸くなったんだな、と感じたりしたのだが、これも年月が生み出す「味」というやつなのだろうか。やはり長く生きたにわとりは違う。カセットもいつか、きちんと整えた環境で聴き比べて、「カセットの音」をしっかり知ってみたいと思う。



ギュウ農フェス。ほぼずっと野外にいた。フェスみがあって楽しかった。最も心を打たれたのは、ユレルランドスケープの「さよなら、春」だった。一年前の春を経て、今の春に辿り着いた、空蝉さなさんの言葉があってこその、「さよなら、春」だった。ユレルラのライブを見るのは二度目、前回見たのは昨年の冬、横浜1000CLUBでのワンマンを控えた新宿LOFTだった。ワンマンはぜひとも見てみたかったのだが、日程的にどうしても不可能で、悔しい思いをした。あの日とは異なる衣装に身を包んだ彼女たちのパフォーマンスは、とても力強く、堂々としていた。

改めてMVを見るとまぁ素敵と思うし、とにかく好みである。鉄製の舞台を踏む音。衣装の金具がぶつかる音。風の音。それらと共に、春空の下この曲を聴けたことは、かなりの贅沢だった。



ミスiD2021を見ていた。公開オーディションというものの残酷さに、今更ながら気づいてしまった。前回は、唯一応援していた人が受賞するという、このうえないハッピーエンドを迎えたから気づかなかった(半面、そのことがどんなに喜ばしいか再認識もするのだが)。今年、僕が応援していた人は、誰ひとり呼ばれることがなかった。僕が感じる面白さと、ある種のエンパワーを受ける面白さ、その基準は当たり前に異なっていて、それは同時により広い世界でも構造は同じなのだ、ということ。今更ながら痛感させられた。正直、選考過程をつぶさに見てきたわけではない。現象全体として追いかけるには、ミスiDは大きすぎる。だがむしろ、表面的に見ているだけでも、これだけ心が抉られるような感覚になるということは、僕はあまり深入りしないほうがいいのかもしれない。それでも、僕がいま軸足を置いている界隈は、ミスiDの磁場の影響を受けない環境だとも思えないのである。

これもまた、配信アーカイブ販売期間は終わっている。とはいえ、過去のものも含めて、ある程度の情報は残されている。掘り進めてみると、意外な発見があるものだ。



トリプルファイヤー吉田靖直さんの自叙伝、「持ってこなかった男」を読んだ。「なんとなく」を「はっきり」と描いた文章、恐ろしかった。多くの人にとっては適当に流れていってしまうはずの出来事や思考が、彼の中では彼なりに、体系的に連なっている。この本で吉田靖直という人の姿を追うにつれて、僕のなかにあった「なんとなく」たちが、どんどん掘り起こされていく感覚があった。最後のページで、本当にそんなつもりなどなかったのに、泣かされてしまった。推薦文に「救われる」と書かれているものがあるが、それは違うと思う。とてもキツい。典型的な「物語」としての起承転結は表面的で、「救い」とは正反対のところに存在している文章だと思う。吉田靖直、ひいてはトリプルファイヤーの作品に何かを感じる人には届いてほしい文章ではあるが、過剰に広まって映画化されたりだとか、メディアのフィルターを何重にも通されていって、「物語」としての商売道具になってしまうのは、嫌だなと感じてしまう。「持ってこなかった男」は、この文章として存在できた時点で、もうこれ以上の装飾を必要としない。それはつまり、この文章の凄まじい強度の証明なのかもしれない。



「世」。まさか、「ふたりのダイアリー」を聴けるとは思っていなかった。この選曲に対する僕なりの解釈を伝えたときの、甲斐莉乃さんの嬉しそうな声が印象に残っている。



ブッダマシーンに救われた。

聴きながら読むと、よりグルーヴィに救われる。おすすめ。



緊急事態宣言をします宣言を聞きながら、タイムラインに流れてきた某ライブハウス前の写真を見て、憤りの風を感じ、呆れの荒野にほっぽり出された感覚になった。僕は、ある時期から滅多に酒を飲まなくなった。付き合いだとしても少量にしている。時折自宅で飲むことはあるが、それは嗜好品として、種類や飲み方の違いで味を楽しむ、「食」の趣味という感覚でいる。酔う、ということ自体は苦手である。それに独特の感覚があるのは理解できるのだが。また、音楽とアルコール(および色んなアレコレ)に深い関係があるというのも、また事実ではあるだろう。ただ、ルールが多い(状態にされてしまった)このご時世、ルールの下でも「酔う」かのような感覚を味わえるもののひとつが、音楽なのではないだろうか。僕の興味は第一に、ライブハウスにあり、そこでステージに立つ人々にある。それらは、他の人々や、路上などで代替されるものではない。ここがダメになったら他のところに行けばいいや、という話ではない。スマートな言い方がなかなか見つからないが、うまいことやってほしいと思うし、万が一爆発する場合は遠くでお願いしたい。



僕がアサギフライデーに出会ったのは、この回を読むためだったのかもしれない。



クロスノエシスの新曲「光芒」がとても良いので聴いてほしい。

彼女たちのパフォーマンスはダンス込みでこそ突き刺さるものがあると思うので、こうして映像が公開されるのはとても嬉しい。クロスノエシスも、5人体制になった直後から活動が制限されてしまったため、おそらく当初思い描いていた展開とは異なったペースで活動を続けている側面があるように思う。それでも、この一年で得たものや、ポジティブに変化したこともあるだろう。昨年末にすこしずつライブ活動が再開され、2ndワンマンを経て、クロスノエシスのパフォーマンスが一段上のステージへ上がったのは、誰の目にも明らかだろう。恵比寿RIQUIDROOMでの3rdワンマンライブや2ndシングルリリースを控え、もう一度強くアクセルを踏み直さんとするような。今のクロスノエシスを見ていると、そんなワクワクが伝わってくる。



コメダ珈琲でみそカツサンドを食べて口を火傷する。これがワンセット。



楽しいこともたくさんあったはずだが、嫌なこともたくさんあった。待ちわびていたライブが大小問わず、どんどん飛んでいく。「正しさ」は移ろうものだけども、ちょっとこっち側に寄ってくれることがあってもよくない?と都合のよいことを思う。





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