YouTuberに無断でライブ撮影された話「承認欲求は自己承認で満たすことも可能」
ある冬の日、ディープな大阪の街角で僕は売り子をしていた。
「はい、どうも~。いきなりですけど、あなたは何をされている人ですか?」
突然、スマホを向けてきた金髪の女性が、撮影許可も足らず僕に尋ねる。
「あっ、勝手にライブ中継をしているな」と思ったので「別に何者でもないですよ」と淡々と対応していたら「撮れ高がない」と感じた女性は、憮然とした表情ですぐにどこかへ消えた。
やりとりの中で、彼女がYouTubeの生配信をしていると判明。
次の獲物を探していた彼女は、異様に興奮している。僕は彼女のエゴイズムと客観性のなさに気味悪さを覚えた。
知人から「数時間でいいので、店頭で売り子をやってほしい」と頼まれた。
日頃から、かなりお世話になっている人だったので「やらせてください」と答えて、売り子をすることになったというのが一連の流れである。
鼻息荒く街角へ消えた彼女の背中を見ながら「何かに突き動かされているような切迫感があり、つらそうだな」と感じた。
最近、私人逮捕系YouTuberの逮捕が話題になっていたる。彼らのように被写体を見つけ消費することで、自分の旺盛な承認欲求を見たそうという人が一定数いる。
こういう人々は例外なく他人軸だ。
自己受容できておらず、誰かから評価されることでしか自分を満たすことができない。そのため手段を選ばず、派手で人から注目されることばかりしようとする。
耳目を集めた瞬間だけは、きっと気持ちいいだろう。
しかし自分軸がなければ、そのあと確実に虚しさに襲われる。
「自分は何をしているのだろう?」「何のために生きてるんだ!?」と、どんどん不安が募る。
そしてその不安を忘れるために、また過激な行為を続けてしまう。
完全に悪循環だ。
生きづらさを抱えている人ほど何かの力を借りて一瞬だけ気持ちよくなり、つらさを忘れる行為を無意識に選びがちだ。
承認は他者からされるものだけではない。
自己承認という言葉がある通り、自分で自分を認めるということもできるのだ。
「自分がどんな生き方をして、誰とどのように関わってきたのか?」は、当人が最もよくわかっているだろう。
胸を張れるような生き方をしていなくても「あのときは逃げずにやり切れた」「つらい状況でも感情をコントロールし、人に優しくできた」など、自分を承認できることは可能。
「有名にならなくては!」「一発逆転しなくては」と思い込む人ほど、日々のコツコツとした地味な積み上げを軽視しがちだ。
自分を認めるのは、ささいなことからで全然良いと思うのだが。