SNS中毒と「心の不感症」|強迫的競争とタイパ鬼重視で磨り減るものとは?
タイムパフォーマンス、略してタイパを追求しすぎるのは現代人の病かもしれない。
一見、正しいと思えることほど、実は正しくない。
合理性を追求した結果、心が悲鳴を上げるのを実感している人がいるのではないだろうか。
テクノロジーの進化は、我々の暮らしを劇的に変える。
それ自体は刺激的で興味深いものだ。
しかしスピードを追い求め無駄を省いた結果、何も感じなくなる人が確実に増えている。
結局、生き物が暮らすというのは、結局、いかに無駄なことを暮らしに入れるかなのだろう。
無駄とは余白の別称だ。
無駄を省いて省いて行き着く先は、ロボットのように心をなくす人の増加かもしれない。
10年ほど前に、SNSにアップするために、面白いものを見つけると片っ端からスマホで写真を撮る知人がいた。
人と歩いていても、会話をとめて写真を撮り始める。
すぐに「あっ、この人依存症だ」と気づいた。
現代人によくあることなのだが、手段と目的が置き換わり、それに気づけない。
「なんのために写真を撮影するのか?」その目的がいつのまにかどこかへ行き、写真を撮影する行為が目的にすり替わっている。
本来、被写体に心を動かされるから残したいという順番である。
彼は写真をSNSにアップし承認されたいという強迫感が強かった。
SNSで評価される写真を撮影し続ける回遊魚のようなもので、切迫感から突き動かされており、それが僕にはつらそうにも映った。
普段から大量に写真をとりためて、毎日効率よく大量にアップする。
写真のストックが枯渇しないためには、日常でいつも写真を撮影しておく必要がある。
常に追い立てられていた。
ある日、彼と会ったときに「写真を撮るのをやめました」と告げられた。
「何かあったの?」と聞くと「写真を撮ることがいつしか義務になり、しんどくなったからです」と漏らしていた。
憑き物が落ちたのだ。
心の声に耳を傾けられ行動変容でき良かったと心から思えた。
現代人は、目的のわからない競争に参加させられていることが多い。
お金を使わせたい側は「報酬系を刺激して依存症のような状態に陥らせよう」と手を変え品を変え人の行動を操作しようとする。そのためには「あなたの人生が充実したものになりますよ」といった甘言をささやくこともいとわない。
刺激を与えてドーパミン中毒にさせるというのは、薬漬けにするのと同じだ。
まんまとこれにハマると、延々にラットレースに参加し続けなければならない。
ずっと動き続けているのだから、疲弊するのは当然だろう。
このような暮らしに誘われると、日常から余白が喪失する。
ある日「なんのためにこのレースに参加してるんだっけ⁉」と気づける人は、まだ健全かもしれない。
エネルギーを使い続けるということは、常に目減りしている状態であり、当然それだけエネルギー補給に追われているということだ。
慢性疲労や不全感の正体は、絶え間なく続く競争への参加と「効率を重視せねば」という強迫感かもしれない。
レースが好きな方は、参加して刺激を追い求めればいい。そこに生きがいを見出す人もいるだろう。
しかしレースが苦手なのに、なぜかレースから降りられない人がいる。
理由のわからない辛さが続いている人は、一度テクノロジーから距離を置き、自分らしい暮らしについてとことん考え抜いた方がいい。心が欲していることがわかれば、自分に合った暮らしがきっと見つかる。
令和の現代は、退屈という概念がなくなるほど刺激だらけ。
しかし刺激を追求しすぎると、心が何も感じなくなることも。
ポジティブな出来事もネガティブな出来事も、心で感じきれる方がいい。
タイパ病に罹患した現代人は、異常な速度の中に身を置いている。その結果、自分の感情の動きが掴めなくなっている人があまりに多い。
現代人は江戸時代の人が一年で受け取る情報を、たった一日で得ているという説も。
日本は花鳥風月の国。
たまにはスマホを置いて、ぼうっと季節の移り変わりを体で感じるゆとりがあってもいい。
ちなみに本日は、二十四節季の雨水ですよ。
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