見出し画像

『生きる演技』町屋良平

俳優はカメラの前で「カット」の一声がかかるまで別の人格を演じる。では、普通に過ごしているわれわれは?生きるとき、誰だって無意識に自分を演じているのではないだろうか。で、その演じる自分ってなんだろう。

町屋良平最新長編『生きる演技』を読んだ。町屋さんの作品を読むのは三度目だが、読後いつも文体を奪われるような気分になる。文体というか、言葉が上手く使えなくなる。

読んでいるとき、中学生か高校生か、どちらかの国語の授業で扱った、『私とは何かーー「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎)を思い出した。人によって見せる顔が違うことから「本当の自分」について考える、みたいな話だったと思う。
『生きる演技』はそれを小説で試みた作品だと私は解釈した。

作品の主人公は元天才子役の生崎と凡才俳優の笹岡の二人だ。「かれ」という人称で交互に主人公が変わる。二人の共通点は演じることが半日常的であることと、親や家族を憎んでいること。彼らはじきに意気投合し、文化祭で戦争を舞台にした演劇をすることになる。

序盤から度々「われわれ」という言葉が出てくる。われわれ、というのは何を指しているのか。最初はクラスメイトだったり家族だったり、その主人公のいる範囲の話だと思っていた。しかし、町屋さんの指す「われわれ」とは主人公ら登場人物を客観視する第三者の視点、つまり作中にも言及されている幽霊のような視点のことかもしれない。

もう一つ疑問に感じたのは登場人物の多さだった。登場人物が多いのは舞台が高校というのも関係しているのだろう。しかしその一人一人に名前を付けていることを不思議に思った。普段の生活ではもちろん一人一人に名前があって当然なのだが、小説上で名前が沢山出てくると分かりづらくなる。どんな小説の名手でも、登場人物に名前を付けるのは読者を困らせる一つの要因となる。そこで、なぜ登場人物全てに名前を付けたのか考えてみた。

名前を出すことでキャラクターに愛着が生まれる。愛着というか彼らの生活の姿が想像できるようになる。生崎や笹岡の生活環境はやはり普通では無い。生崎は母親が自殺し父親は不倫相手と再婚、笹岡は両親共違法ドラッグで逮捕されている。その二人の環境の異常さを際立たせていたのが、普通の生活をしているクラスメイトら、元同級生の名前だと感じた。言葉で説明するのは難しい、伝わってるかな。

二人の物語の終幕は突然訪れる。彼らは演劇を演じ切ることなく、笹岡が起こした暴動によって自然消滅する。町屋さんは何故こんなラストシーンを描いたのだろう。しかも、暴動シーンで終わらせるのではなく最後"笹岡"を演じる生崎で終わる。
ドラマチックな展開もありながら、私は「人は常に演じている」ということを受け取った。彼らの演劇にカットはかからなかった。つまり演技は続くとも捉えることができる。生きるために自己演出が欠かせなくなった現在の社会で誰も彼も演技を必要としているのだ。

となると、「本物の自分」はどこにあるだろう。というか本物ってなんだよ、という話に戻る。踠きながら探していくのだろう。印象的だったのは最後の笹岡から生崎への手紙を読むところ。

生崎は手紙のなかの笹岡が自分の言葉のようなものを取り戻していく、そのようすが羨ましく、腹立たしかった。

文藝2023 秋
p.175

「自分の言葉」という表現が良かった。ずっと葛藤して、周りに振り回されて、考え方も歪んでしまった二人だけど、二人が報われるためにはそういう「自分の言葉」というのを見つけることしかないのかなと段々と思っていたから。そして少なくとも笹岡はそれを見つけたみたいだった。生崎は誰にも本心を見せないようにしている分、見つかるのはまだ時間がかかるかもしれないけれど、演じていくと覚悟を決めた彼は必ず見つけるはずだ。

おれはもう、演技をできるか正直、わからない。なにが裏でなにが表かわからないから。なにが……、つまり、わからないんです、演じるってこととか、いい演技とか、ふつうの人間として自然とか不自然とか……けど、演じたい。やっぱりなにかを演じたいです。

p.177

良い台詞!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?