リアル勤務という仁愛と、テレワークという兼愛
リアル勤務は近い人と仲良くなり、テレワークはみんなと等しく薄く仲良くなるのでしょうか?
新型コロナウイルスの大流行により、世界の至る所で一気に広がったテレワーク・在宅勤務も、ウイルスの流行が徐々に収まるにつれて、オフィスでの実勤務がまた切り替わってきました。
IT系の大企業でもテレワークを認めないケースは多々あり、テレワークに慣れた、あるいはそれがあるからこそ入社した従業員は、テレワークを諦めるか退職するかの二択を迫られています。
会社側がテレワークを止めさせてリアル勤務を強制する理由は様々あるでしょうけれど、一つはコミュニケーションの問題があります。
生まれたときからリアルでのコミュニケーションで生きてきた人間の大半は、当然ですがリアルでのコミュニケーションによって人間関係を築いてきました。それは成人して職業に就いてからも同じことで、
「職場における人間関係の構築にはリアルでのコミュニケーションが欠かせない」
と考える経営者・幹部は少なくありません。
遠距離恋愛の難しさにも通ずるでしょうけれど、距離的に近い人とは仲良くなり、遠い人とは仲良くなるものです。もちろん、近いからこそむしろ逆に仲が悪くなることもありますが、少なくとも、よく知らない人のままではありません。
リアル勤務でも、同じ部署や同じ島の机で仕事をしている人とは、仕事以外の話もすればどんな人か分かってくる一方で、たまにしか会わない、もしくは全く話すこともない他部署や他支店にいる同僚のことは、名前は知っていてもよく知らない人のままです。
つまりは、人間関係の濃淡で言うとリアル世界では距離が近い方が濃くなります。
しかしテレワークだと席が近い遠いが無い以上、コミュニケーションがネット経由のチャットやビデオ会議、メールになり、人間関係の濃淡が色濃く出ません。
リアル勤務とテレワークでは人間関係の濃淡の出方に違いがあると思います。
こういう関係性というのは、儒教において孔子が説いたいわゆる仁愛と、墨家を起こした墨子の言う兼愛の違いに似ているなあと感じました。
仁愛は、儒教における身近な者を大切にしなさいと言う教えです。儒教自体が、「修身、世家、治国、平天下」という言葉にあるように、自分から始まり徐々に対象を広く持っていく考えが基底にあります。
その一方で墨子の説く兼愛は、仁愛を差別や限界のある愛であり、全ての人を平等に愛すべきだという博愛そのものです。
墨子・墨家思想の方が孔子・儒教よりも後に出てきていることも、後からテレワークが発生していることにも似ていますね。
屁理屈になりますが、キリスト教でも
「汝の隣人を愛せよ」
と
「神の下の平等」
という考えがありますけれど、あれは矛盾しないのでしょうかね。結局、身近な人への愛と、誰もを平等に扱うという考えはどっちも大切なんでしょう。
仁愛も兼愛もどっちも大切ということで、世の企業経営者さんには、個人の選択でリアル勤務とテレワークを織り交ぜて仕事出来るようなルールや環境を整えてほしいのですけれど・・・。