自責思考とのお別れをしよう
皆様ごきげんよう
梅雨のジメジメする今日、いかがお過ごしでしょうか
(こちらのnoteを7月に書いたため、季節感がちぐはぐです。)
改めまして、寒さが一段と深まり、冬の訪れを感じる今日このごろ、お障りなくお過ごしでしょうか
本日は自責思考とのお別れについてお話ししたいと思います
自責思考と他責思考
上記のこの二つ
わかりやすく言うなら、起きた問題に対して
自分のせいにするのか、他人のせいにするのか
私の場合はこれがかなり拗れていて、何か起きた物事の失敗に対する、
自分のせい=罰がなければならない
という固定概念に囚われていました。
これがまた面倒で、自分で課した課題が未達成になってしまった時、この罰が次に繋げる対策の障害になる。
罰に対する思考の比重が大きすぎて、次に進まない。
人によりけりだが、通常であれば
何かに失敗した!
→反省
(やっちゃった、もう次はしないようにしよう)
→対策
(どこで転んだか/次しないようにどうするか)
の二つの選択肢に進むのがセオリーだと思う。
私の場合
何かに失敗した!
→反省
(やっちゃった、もう次はしないようにしよう)
→自分に対する罰が必要
(次はしないようにするための"罰が必要"という思考になる。これ自体が最近おかしいことに気がついた。)
罰の内容ばかり考えるようになって、次の対策に進めなくなる、が現状にある。
この時に己の罰としてセルフネグレクトをしてしまいそうになる(既にしている時もあるかもしれない)ので、まずは「 失敗した自分を許す」ことから始めようと思う。
例えば、縄跳び3回跳ぼう!で、実行。
ひっかかって飛べなかった…。だめだった、やっぱり自分はダメなやつなんだ…とここで自責思考が暴走する。
これによる精神の自傷行為をしてしまうので、スモールステップによる罰の縮小化を図る。
"ダメだったこと"に対しての罰を小さくしなければ、自己満足で罰を大きくするし、満足するまで傷つける。
それに何の生産性があると言うのだ
今起きてるのはこういうことか
客観視できてるじゃん。
こんなことしてたら死んじゃうよ。
1つ失敗して、地球が滅亡したらそのぐらいの絶望を傍においてもいいけど、仕事に関係する事や自分自身との約束を守れなかった時に、その自身が持つナイフを自分に向けてはいけない。
一旦下ろそう。床に置いて、大丈夫と唱えてみる。
口に出すのが大事。
「次はもっとよりいいものが出来る、大丈夫」
次できることをやりやすくするために、対策方法を組み立てる/観測できる事があることを忘れないで。
出来ない、には必ず転ぶ部分がある。
それを分解して、やりやすくなるように再構築する
階段5段飛ばしで登るのを強制されてるかもしれないが、こっそり1段ずつを認識して足を置いて登る。
5段はハードル高いぜ🥲と思うのであれば、ステップの小ささを認識した方が始めやすいと思う。
(こっそり1段の解体がこれ↑)
例えば、困っているものを一つずつ確認をする。
確認とは、責任の重さを自分と相談した人に分散すること。
責任という言葉は、大きくて重たく感じるかもしれないが、それを多くの人、そばにいる人に話すことによって、自分から下す/もしくは分散することができる
分からないから戸惑う、忙しいかも、と杞憂しすぎて質問できないのであって、その根底にあるのは、自分の分からないから失敗する不安と、遠慮している部分だけ。
理解できれば失敗しない。
エラーは起きるかもしれないけど。
忙しかったらまた後でね、とされるのであって、そうで無かったらちゃんと教えてくれる。
大丈夫、ちゃんと乗り越えられる。
質問は、世界を開いて解像度を上げてくれる。
恐れるなよ。その世界の美しさに。
恐れに心を占拠されてなるものか。
強く生きるぞ。
私が忘れないための1ページでした。
読んでくれてありがとう。
2024.7.1