「本当は怖い民話」から人事を考える 第2回 姥捨て山と定年制度(前編)
最終更新日:2024年5月23日
民話と人事、第2回は姥捨て山にしてみましょう。
姥捨て山は悲しい話です。
そして昔話ではなくなるかもしれません。
僕たちは、これからの日本に、姥捨て山が生まれないようにしなければいけません。
姥捨て山をハッピーエンドのストーリーとして理解している人もいるかもしれませんが、ハッピーエンド部分はあとから付け加えられたものであり、元の民話はとても悲しい話です。
姥捨て山の基本ストーリーは以下のようなものです。
【基本ストーリー】
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老人を山に捨てる因習を持つ村がある。
息子が老母(あるいは老父)を山に捨てに行く。
老母(あるいは老父)は息子のために帰り道がわかる工夫をしている。
息子は親を捨てることができず、家に連れて帰る。
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老親を連れて帰るところで、基本的なストーリーは終わります。
多くの原話では、その先は語られていません。
二つの問いを考えてみましょう。
姥捨て山は、非人道的な因習の村の物語なのでしょうか。
老親を連れて帰ってきた息子は賞賛されるべきなのでしょうか。
なぜこの物語が生まれたのか、その背景を想像してみると、問いに対する正解がないことがわかります。
物語の描写からは、定期的な干ばつなどの食糧難にさいなまされる地域において、働き手となりえなくなった年齢の人間を捨てに行かざるを得なかった状況が想像できます。
そのような状況が繰り返されることで、因習が生まれたのです。
誰も非人道的なことをしたいわけではありません。
そうしなければ、若者が生きていけないから、仕方なくそうしたのです。
繰り返し繰り返しの環境要求の中で、それが因習となり、村に定着しているのです。
そうせざるを得ない村の生産力や地域環境の問題を考えると、姥捨て山を非人道的な話だと断定することは難しいといえます。
では、老親を連れ帰ってきてしまった息子はどうでしょうか。
そもそも、食べるものが足りないからこそ因習が生まれているのです。
息子はどうやって老親の食料を工面するのだろう。
息子に妻や子供がいた場合、どう説明するだろう。
姥捨て山を描いた小説に、楢山節考というものがある。
この悲しみを文学に昇華させた物語だが、そこに救いはない。
生産力が低下した老人を集団から排除する、と言う仕組みは企業にも存在しています。
それは、定年制度です。
現在の日本では、定年年齢と健康である年齢とが乖離してしまっているので、生産力があるにもかかわらず、生活の糧を得られなくなっている人を生み出す仕組みになってしまっています。
ほとんどの人にとって企業で働くことが生活の基盤なので、年齢を条件として企業を出ていかなくてはいけない仕組みは、まるで捨てられたような気持にもなるでしょう。
平成25年の調査でみれば、日本の97.2%の企業が定年制を採用しています。
諸外国はどうでしょうか。
良く知られている例でいえば、アメリカには定年がありません。
1967年に法律で禁止されたため、どの企業も定年を制度にできないのです。
一方で、公務員への公的年金は55歳から支給される例もあり、退職と年金とは密接にはリンクしていないことがわかります。
イギリスでも2010年4月に定年制は廃止されました。
年金は国民保険から支払われるのですが、男性で65歳、女性は60歳からです。(将来的には68歳まで引き上げられます)
では、日本でも定年制度は廃止されるべきなのでしょうか。
(後編に続きます)
セレクションアンドバリエーション株式会社
代表取締役 平康慶浩(ひらやすよしひろ)
民話と人事シリーズ第1回も掲載しています。
興味があれば覗いてみてください。