「着ぐるみ」探しをあきらめて、同じように生身の誰かを探し始めた日
穂村弘の「短歌ください」に、このような歌とその評がある。
着ぐるみが着ぐるみを抱くこの世界わたしが着られる着ぐるみがない
(つきの・女)
面白い感覚。<わたし>の目には普通の人間たちがみんな「着ぐるみ」に見えているんですね。「着ぐるみ」探しはどこかで諦めて、<わたし>と同じように着ぐるみをもっていない誰かを探すしかないのかも。
(穂村弘「短歌ください その二」 p.133より引用)
良きものに出会いました。この詩的な感覚、とても共感します。
僕は大学時代がそれをいちばん強く感じていて、その感じ方は破滅的で破壊的なくらいで、着ぐるみを着た人々が出てくる小説をじっさいに書いたことがあるくらい。(着ぐるみというイメージまでもが重なっている!)
生身の人間は、自分のほかにはなかなか見当たらなかった。
孤独な地獄めぐり。
誰か応答してくれ。しかし応答はない。
馬鹿にするような笑い声だけが、遠くから聞こえてくる……。
ここで僕が言っている「着ぐるみ」とは、あまりにも自分の役割(大人、職業、集団の中での立ち位置、親や子供、男や女など)に徹しすぎている、演じている人という意味です。
「生きのびる」ために最適化された思考と行動。効率化せよという社会からの要請。
ここでそれを批判しているわけではないし、それぞれの個人の考えは尊重されてほしいと思っているけれど、僕は何歳になってもそんな風になれなかったし、そうなりたいとは思えない。
ずっと一人の人間でありたい。自分でありたい。人間対人間の対話がしたい。
穂村弘もよく話していることですが、
現代の日本では「生きのびる」(生命の維持、経済的な効率)が重視され効率化されすぎていて、
「生きる」(人間としての自然なあり方、豊かな生き方)が軽視され縮小されすぎている。
そのことに僕らはくるしんでいる。
振り返れば、自分の人生にも「着ぐるみ」探しを諦めた瞬間がありました。
「生身」の誰かを探し始めた瞬間がありました。
何人かに出会いました。仲良くなった人もいれば、仲良くならなかった人もいます。当時は皆尖っていたので、喧嘩もしました。
どちらにせよ、そういう人達との対話は僕にとって非常に重要な体験であり、何年たっても記憶に留まり続けています。こころの貴重な栄養です。
僕が出会った生身の人は苦しんでいる場合が多く、「生きる」ための力は比較的強いけど「生きのびる」はあまり得意ではない人が多かったので、どこかへ去っていってしまった人や亡くなった人が多いです。
誰一人として忘れていません。
以前に書いてプロフに固定してある記事に出てくる、親友もその一人。
大学生の頃は自分にも相手にもぜんぜん余裕がなくて、彼らとの対話は人格と人格の激しいぶつかり合いになり、ときには血が流れる(比喩です)場面もありました。
時間がたてば流された血が大地に染み込んで、一輪の柔らかな花が咲いたりもするんですけどね。
その花が風に揺れる古戦場を、しずかにひとり眺めるのも乙なものです。
ただ、いろいろ経験してきた今は、お互いの立場を考えて、お互いにプラスになるような安心と豊かさのある関係でありたいなと思います。
以前の、孤独とか憎しみとか欲望などが入り混じった激しいエネルギーとは別の動力で、現在は身体とこころを働かせているので……。
さて、これを読んでいるあなたは、着ぐるみを着ている人間ですか、生身の人間ですか。(その中間である場合は、どちら寄りだろうか)
詩とエッセイの狭間から、あえてこんな風に聞いてみます。
生身の方との対話は常に求めています。良かったら仲良くしてください。
この地球に散らばる同胞たちよ、応答を願う。