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もしくは感性に麻酔を。

「感受性が強いところがありますね」と初めて言われたのは中学3年生になってすぐの頃。一学期、教室に通えない日々が何日か続いた。理由がわからず吐き気やめまいがし、朝遅く出席したり途中で保健室に行ったり、早退したりを繰り返した。後30年、この言葉を言われ続けるとは思わなかった。他の生き方を知らないから、みんなそうだと思っていた。

先日、娘の父親と口論になった。恥ずかしいかな、ここ数年は会えばケンカをしてしまう。電話でも彼の不穏が伝わり精神的に参ってしまう。そんな堂々巡りの状況に自己嫌悪し、「次は絶対に彼の感情に飲まれないようにしよう」と思えば思うほど、顔が強張り会話ができなくなる。「僕のことが嫌いなの?」「いやそんなことはないけど、なんだか話をしていると、否定されている気がして怖いからあんまり話さないようにしているだけ。(他に言い方なかったか、でもこれが精一杯)」と伝えた。「え?どんなところが?」「今さっき、娘が生まれたのは朝の2時だと伝えた時よ。なんで嘘をついたのと言われたからよ」と。

今思えば、またやってしまったと後悔しているが、自分を守るために止められなかったのだ。彼の姉と姪がカフェのトイレを利用して席を外した数分の間に、私はフランス語でなんだか暴言を吐かれた。実際フランス語はわからないから何を言ってるのかは全然理解できなかったので、ダメージはあまり受けていない。が、男性にYallingされたことないので気味の悪い恐怖感だけが残った。

娘が生まれたのは朝の2時である。彼が言い出したのは「娘が生まれたのは朝の7時だよね」と「いや、朝2時だよ」「え、連絡が来たのは7時だよ。なんで嘘ついたの?」ん?嘘ついてないよ。産後すぐ娘はICUに運ばれたりドタバタしてしまったから、それで連絡が遅くなったのかもと釈明した。それからは、自分が私が入院してからの5日間、実家の畳の部屋でどんな思いをして過ごしていたか、私の両親と過ごした日々が如何に苦痛だったかを言いたいかの如く過去の記憶を掘り起こしてくるのだ。この会話はこの2年間何度も繰り返され心底辟易していた。くどい、なぜ私があなたの感情の処理をしなければならないのか、私はあなたの感情のゴミ箱ではないと何度も繰り返し伝えてきたのに、だ。

それからは気分が悪くなり、彼の姉と姪がトイレから戻ってきた時にはもう言葉が止まらなくなっていた。彼は何度も語気を荒げ「なんで嘘をついたの?なんて言っていない」と。

姉と姪には悪いことをしたと思っているが、この機会なので「彼は自分が言ったことを後々言っていないという癖がある」と思い切って伝えた。幸運にも母親からも姉からも溺愛されているこの弟の、そして彼女ら家族を経済的にサポートしている彼のことを悪く言うのはずっと躊躇していたが、もうどうでもいいし今しかないと思い伝えると「そう言うところ、ある」とまさかの回答だった。みんな承知の事実だった。「知っているのであれば、止めるよう伝えてくれ」と泣く泣く伝えたが、「伝えても変わらない、〇〇(私の名前)強くなりなさい。母親なんだから、娘のことだけ考えなさい」と。

この後は娘を抱き抱えたまま玄関で靴も履き替えぬまま膝から崩れ落ちた。幸い娘は眠っていたが、私の絶望は計り知れず逃げ出したかった。知らぬ国、誰もいない街で。

彼女らの言う強さとはなんなのか。伝えても変わらない、男だからわからない、ただ聞き流しなさいと諭された瞬間の絶望感。あれだけ彼はフェミニストだと公言していたにも関わらず、側近にいる女性らがもう白旗をあげてしまうほど頑固なのだ、コミュニケーションを図り建設的な関係を築くというプロセスさえ「家族だから(どんなことがあっても無条件で愛され受け入れられる)」「男だから(理解し合えない)」「言語が違うから」で遮断されてしまう。彼の言う価値観の理解は、どちらか一方の神経の摩耗によって確立される。私はそのような環境では生きていないし生きていけない。

彼や彼の家族を批判はしない。実際に心根が優しく、本当に協力的で親切なのだ。特有のエスニシティであったり、苦境を脱し成功した人が見せる「自分ができたから他人もできる」思考がとても今の私には窮屈に感じる時もあるが、これは私が置かれている環境によるものだろう。私も日本に自身の出生した家族がいるが、母親を除く一人一人が、完璧ではないながらも自分自身の努力範囲内で各々の感情を処理するよう心がけている。それは私を取り囲んでくれ、いつでも味方になってくれた友人たちも同じだ。余計な感情や自分の勝手な不満を外には出さないし、他人に委ねたりしないようにしている。それは独立した精神を保ち、生活を送っていくためには必要なことだった。日本では。全ては私側の問題なのだ。

中学生の頃に学校にフルタイムで通えなくなったのは、部活動の同級生からの女子生徒にはよくありがちな「ハブる」の対象になったからだった。たった一人の女子生徒ではあったが、その当時も顧問とその女子生徒と私の3人で話し合った際、「言ってもわからない」「伝わらない」「変わらない」「強くなりなさい」で話は進まず、結局私はその両方との関係を断ち切ることに行き着いた。その十数年後の同窓会に、彼女から話しかけられても私は一切反応をしなくなった。それから体調不良が何ヶ月か続いた。

今でも感受性が強すぎるくらい強い、と言われる。巷で言われる誰が定義し始めたのか分からないが、おそらく医療用語ではないであろう診断名を差し出されることもしばしばあった。些細なことで感動し、泣き笑い楽しめる性格を自分でも好きだったし、そこを好きになってくれた人たちが沢山いたのも知っている。そのおかげで私はどんな時でも幸せを強く感じることができた。ただ、強くなるためには、この感受性にも麻酔を打ち麻痺させ、ニュートラルに生きていく必要があるのかもしれない。答えは出ていない。解決策がない。

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