僕のうつ病闘病記 #3 SNSがどん底の僕を救ってくれた
前回はMくんと別れたところまでを書いた。
今回はその続きである。
Mくんと別れるしばらく前から僕の頭の中は希死念慮に支配されるようになっていた。
躁状態が落ち着いて以降、こんな僕が生きている意味はあるのかをずっとずっと考えていた。
自分ではそれを取り払うことができないのでMくんとの別れを決意したのだが、結果的にそれは正解だったのだろう。
僕はその約半年後、自殺を試みるに至ってしまった。
もう消えてしまいたいという気持ちでいっぱいになってしまい、これ以上この世に居たくなかったのだ。
でもそれも叶わず、未遂で終わってしまった。
人間が自ら命を絶つことの難しさを知った。
おそらく両親にも深いダメージを与えてしまった。
こんな状態でも独りで生きていくしか方法がないなんて絶望でしかない、本当にそう思った。
そんな僕の心を救ってくれたのがmixi(ゲイアカウントの方)の友だち(マイミク)であったTくんだった。
知り合った経緯は忘れてしまったのだが、おそらくどちらも孤独で絶望していたのが繋がるきっかけであったと思う。
Tくんが住んでいるのは九州だったのでもちろん北国に住む僕と直接会うことはなかった。
しかし、今とは違う当時のSNSという適度な距離感がその時の僕にはちょうど良かったのだと思う。
僕は常に暗い文章を粛々と書いていたと思うがTくんはまめにコメントをくれていた。
Tくんはうつ病当事者ではなかったこともあり親身だったり励ましのようなものではなく極めて淡々としたコメントだったのだが、僕の文章をTくんが見てくれているということで僕は絶望の中でも日々を生かしてもらっていたように思う。
それまでの僕は独りで闘っていた。
Mくんと別れて以降は現実世界でも両親以外の誰にも会っていなかったのでTくんが居なければ本当に独りだった。
Tくんが僕を理解してくれたおかげで絶望の淵から少しだけ浮き上がれた僕は交流を少しずつ増やしていくことができた。
その時mixiと並行してやっていたのが「メンミク」である。
mixiのゲイ専用のものであったが、当時はこれも流行っていた(覚えている人、やっていた人が他にもいたらとても嬉しい)。
どちらも僕はうつ病であることを隠さずやっていたのだが、理解を示してくれたり同じ病気であることで繋がれたマイミク(メンミクではマイメンミク)さんも少なくなかった。
ここで初めて僕は自分以外のうつ病の人とやり取りができるようになった。
同じ境遇の人と気持ちを分かち合えるようになったのは大きかった。
このことがさらに僕の回復の後押しをしてくれたのは明らかだった。
ある程度回復できた僕は今度は繋がっているマイミクさんに直接会って話をしたくなってしまった。
マイミクさんは全国各地に居て、近場の友だちであればすぐ会えるのだが遠い友だちに会うにはどちらかが行く必要があった。
そこでもともと旅行が好きだった僕の方から会いに行くことを選ぶのは僕の中では必然だった。
しかし当時の僕には収入がなかったのであるが、なんと借金をしてまでマイミクさんに会いに行くようになってしまったのだ。
今だから言うがカードローンの審査の際に少しだけ事実を偽って審査を通した僕は打ち出の小槌を手に入れてしまった。
後にその返済に長い時間を要することになってしまったのだが当時の僕はなんとも浅はかであったので後先考えずにお金を遣っていた。
その時から続いているご縁が数件あるのでまったくの無駄ではなかったとは思うがやり過ぎた感は否めない。
その時遣ったお金、そして利子として払ったお金があればもう少し老後の生活の心配をせずに済んだと思うのだが今更考えても仕方のない話である。
浪費に走った原因としてもうひとつ考えられること、それは楽団への未練である。
僕が居なくても順調に活動を続けているのが羨ましくて仕方なかった。
皆は楽しくやっているのになぜ僕は独りで鬱々としているのか。
そう考えると本当に悔しかったのだ。
でも楽団の活動はできなかったので、僕は遠征して全国のいろんな演奏会を聴きに行くようになってしまった。
そのついでにいろんなマイミクさんに会っていた、という具合であった。
こう書いているともしやその時も躁状態ではなかったのかと思ったりもしたがきっと違うと思う。
旅行に出かける時は元気であったが帰ってからは必ず落ちていたし、時には旅行中に動けなくなってしまうこともあった。
基本的にはうつ状態であったが今よりは断然若かったということだと思っている。
その頃の僕はとにかく以前の自分を取り戻したいと思っていた。
早く元に戻って楽しい生活をしたかったのだ。
その想いの強さからの行動だったのだと思う。
逆に考えると本当にそれしか考えていなかった。
うつ病のことを甘く見ていたし、自分のことも過信していた。
今だからそう言えるが当時の僕にそれを求めるのは難しかったと僕自身もわかっている。
そんな僕に次第に休職の期限が迫っていた。
3年も休ませてくれるなんて福利厚生が素晴らしい会社だったと思う。
僕としては復職以外の選択肢はなかったのでギリギリいっぱいでそれを目指すこととなった。
状態は万全ではなかったが元の生活を取り戻すためには気合いで復職するしかなかった。
今思うとアウトでしかない通勤訓練という名のタダ働きを経て主治医と産業医から復職可の診断書をもらい、本当に期間の限界いっぱいで僕はなんとか復職し一応寛解、という状況に至った。
このnoteを書きながら僕は今mixiを懐かしく思い出している。
過去にmixiに救われた僕はnoteを書くことで救いを求めているのかもしれない。
mixiの後はTwitter(現Xであるがやはりこっちの名がしっくりくる)に移行していくことになったのだがおそらくTwitterではきっと僕は救われなかっただろうと思ったりもしている。
人それぞれだとは思うが、僕にはこの雰囲気が合っているのだろう。
文章を書くのが好きだということも大きいように思う。
大変申し上げにくいのだが、まだまだ話は続きそうである。