僕のうつ病闘病記 #5 そして僕は無職になった
前回は2回目の休職に至ったところまでを書いた。
今回はその続きである。
復職から約10年後再度休職することになった僕だが、前回のように休職後に躁状態になることはなかった。
その頃推していたアーティストがいたので遠征などには行ったりもしていたのと相変わらず若干セックス依存が強かったかもしれないが、それは解放感という程度のもので躁までは行っていなかったように思う。
約1年が過ぎそろそろ復職を考えないといけないと思っていた頃、コロナ禍と甥っ子の面倒が始まることとなった。
詳細については当時の記事(特に後編)で書いた通りであるが、ここまで甥っ子に手がかかることは本当に想定外で僕自身の療養の予定が完全に狂ってしまったことは間違いない。
実は今も甥っ子がちょうど大学卒業間近だというのに未だ就職が決まっておらず悩ましいところではあるのだが、彼との付き合いも長くなってきたのと一応彼ももう大人であるのであまり余計な口出しはせずにおとなしく動向を見守るだけにしている。
この1年は記事でも書いた通り僕にとっては本当に苦しく辛い1年となった。
それと同時に当時の主治医との軋轢を生んでしまった1年でもあった。
甥っ子の件についての見解が僕と主治医とで違ったので僕の方に不信感が生じてしまったのは間違いない。
コロナ禍であったせいもあり家族と主治医以外の人に会うことも話すこともできないまま過ごしていたことも僕の状況を悪くしていたと思う。
この時点で僕の復職はだいぶ遠のいてしまったような気分になっていた。
甥っ子が大学生になり家を出て少し経った頃、僕はある広告を見かけた。
それはうつ病の薬の治験の広告だった。
薬を飲んで謝礼をもらえるというのは当時無収入になっていた僕には大きかったのと先の主治医との関係も悪化していたので、僕は治験に参加するという名目で今の主治医のもとへ転院することにした。
対象の薬をもう飲んだ経験があったため結局治験には参加できず謝礼ももらえなかったが、この転院は僕にとっては良いものとなった。
今の主治医に先の甥っ子との件を伝えてみたところ、先の主治医とは違い僕の行動を否定されることはなかったし逆に「前の先生は厳しかったんだね」と労ってくれた。
遠のいてしまった復職が少し見えるようになった。
すると今度は父の体調が悪くなってしまった。
それまでも何度かがん治療をしていたのだが、入院の頻度が上がってしまったのだ。
コロナ禍ということで面会こそできなかったものの着替えやら何やらを届けるため毎日のように病院へ通うことになった。
そうこうしている間に復職まで1年もなくなってしまったので、少しずつそれを踏まえて生活する日々が続き自重での筋トレや冬には雪かきで体力をつけようとしていた。
有難いことに時代の変化もあってか、会社側も前回の休職時とは違い僕のことをかなり手厚くサポートしてくれたと思う。
そのおかげでようやく復職へ向けての準備が整いそう、そう思っていた頃に父の容体が悪化した。
父はみるみるうちに衰弱し、ついに家から出られなくなるほど動けなくなってしまった。
通院できなくなったので在宅医療に切り替えたが、その先生は家に来るなり「必要な人には早めに来てもらって話をさせてあげてください」と告げた。
そんなに父の先が短いとは思っていなかった母と僕だったのだが、それからひと月経たずに父は逝ってしまった。
父には本当に申し訳ない話なのだが、休職の期限の約3か月前のことなので復職を目指すうえでは最悪の時期に父は逝ってしまったのだった。
会社側も事情は汲んでくれたがさすがに休職の期限までは動かせない。
主治医は復職に拘らなくていいのではと言ってくれたが、僕としてはこの歳で無職になってしまうのはものすごく怖かったし抵抗もあった。
僕自身は父のことであまり動揺していないつもりであったし前回のように強引に行く手もなくはなかったとは思う。
しかし最後の会社側との面談の日、結局僕は復職を決断できなかった。
会社側は最大限譲歩してくれたと思う。
でも僕は父の事後のことや気が抜けてしまった母が心配であることなども含めいろいろと考えてしまい、いざ決断するとなると歳のせいか自信がなくなってしまったのだ。
状況というよりも僕の復職への執念が足りなかったのだと今では思う。
前回はとにかく何が何でも元の生活を取り戻すと思っていたが、今回はそういう気持ちがまるで湧いてこなかったからだ。
とにかくそこで僕の復職への道は断たれることとなり、僕は無職の身となった。
僕は復職を諦めたことである意味肝が据わり、主治医とも話してしばらくは家のことを片付けつつ今後についてゆっくり考える時間を持つことにした。
肝が据わったのには多少の退職金と父の遺産を得たことも大きかった。
やはり生きていくうえでお金のことは必須であり最重要である。
可能であるならこのまま働かずに生きていきたいところだが、流石にそこまでの財産ではないのでいずれは働かなければならない。
50を過ぎてしまったので再就職も難しいのだろうかなどと考えながら過ごす日々が続いていた。
そんな中出会ったのがある発信者さんの動画だった。
「生きづらい人のための人生戦略」という本を書いている「なにおれ」さんという方の動画(というよりは音声)が僕には刺さった。
収入も途絶えた僕は「少ないものとお金で楽しく暮らす」というミニマリスト的な発信をきっとこういう暮らしを目指すのがいいんだろうなと思いながら聞いていたのだが、なにおれさんはそれ以上のことを僕に示してくれた。
僕の今のライフスタイルから大きく変える必要はないことを示唆してくれたのだ。
考えてみれば僕はコロナ禍以降お金を遣わない生活をしていた。
旅行にも出かけられないし誰にも会えないのでお金を遣う必要がなかったからだ。
そうすると気づけば昔よりも支出がかなり少なくなっていた。
その生活が長くなるとそれが普通となっていき、何故か自然とそういう欲も少なくなっていった。
いつの間にか僕はミニマリストのような生活をするようになっていたのだ。
人間関係も同様である。
決してリセットしたわけではないのだが、コロナ禍以降は他人と連絡を取り合う機会がぐんと減った。
それまでは僕の方から連絡を取っていることが圧倒的に多かったが物理的に甥っ子対応で忙しかったこともあり約1年ほぼ誰とも連絡を取らず(取れず)に過ごした結果、僕が連絡をしなければほとんど誰からも連絡が来ないということが分かってしまったのだ。
僕が病気であることで遠慮してくれていた人も居るかもしれないのだが、捻くれ者の僕はそういうことならと思い基本的に僕から連絡することを止めることにした。
そうするとまるでリセットしたかのように見事に誰とも連絡を取らずに過ごすこととなり、そんな生活が案外悪くないどころかむしろ心地いいとまで思うようになっていた。
そんな中、僕はふと気がついた。
僕は生まれてこの方ずっと学校や会社、楽団などの大きな組織の中で他人よりよく回る歯車であろうと努めていたと思うのだが、そんな自分に心底疲れてしまってうつ病を発症していたのだ。
たぶん自己犠牲による他者貢献の限界だったのであろう。
他者貢献でしか自己肯定感を上げられなかった僕は自分を殺すことが美徳だと信じて疑っていなかったが、そもそもそれ自体に問題があることに気づくことができた。
僕は元の生活を取り戻すことがうつ病寛解への道だと思い込んでいたが、実は違ったのだ。
元の生活を取り戻そうとするとおそらくまた同じことを繰り返してしまう。
そうではなく、疲れ果てた僕自身の居場所を新たに見つけることこそが本当のうつ病寛解への道なのではないだろうか、そう思えた。
この考えに至って以来、僕は気持ちが少しずつ軽くなり今に至る。
まだ寛解には辿り着いてはいないので断言はできないのだが、今はこの線で行けるところまで行ってみようと思っている。