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下北沢にあるオシャレな眼鏡屋さんの店主ごーきょーのお話。
ごーきょーは僕の学生時代の友人のまいこの旦那である。
桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻という。社会的にはなんとも説明のしにくい学校の学部を2年で卒業してはや20年。卒業式のとき「先生達はいつでも相談にきていいのですからね。」と若葉達を送り出してくれた。しかし現実は違い、卒業してすぐに入ったお芝居のカンパニーでは、「お前はもうプロなのだから桐朋に戻るべきではないよ。」とボスに諭される。気がついたら僕はプロにならなくてはと、どんどん力んでいってしまった。そもそもプロとはなんぞや。
伸びやかな想像力や発想、許しあい、本音を語り合う仲間を置き去りにして。走り続けたのだ。それはもうがむしゃらに。巨匠の発言とはそれほどまでに若者にとっては良くも悪くも、偉大なのである。
そもそも、6歳からはじめた演劇人生。学生云々プロ云々と言われて必要以上にハッとする必要はなかったのだと、ようやっと思えてきた。
肩書やタイトルを気にして社会性を気にして、どうして自由な創作活動ができようか。
大野一雄さん、土方巽さんがはじめた舞踏の世界には内面凝視という考え方がある。
世界を見る眼のお話だ。
一つは近くを見る「虫の眼」
もう一つは遠くを見る「鳥の眼」
そして最後は自身の内面を見る
「内面凝視」だ。
それは自身の本質に触れるための旅である。恥じらいも、苦しみも、喜びも、怒りも、優しさも、恐れも、すべて受け入れる内面の宇宙への旅だ。
我々は表現をする者である。
己が自由な表現、自由な声、自由なムーブメントを獲得するためには、常に柔らかな存在でいる必要があり、演劇においては自身の存在を認め、許し、そして磨いてくれる仲間が必要である。そして空間を、世界を創りそこで語るのだ。言葉でも、絵でも、文字でも、物体でも、音楽でも、ダンスでも、パペットでも、何もないものでも。伝えるのだ。伝えたいあなたがいるかぎり。それがわれわれ表現する者の本質なのだと思う。
気がついたら、外側ばかり見てしまい、また自身も外側の世界に合わせようと無意識に力が入り「ワクワクやドキドキ」が恐れや力みになってしまっていた。2024年末の僕はまさにそうだった。
仕事に追われて、外側ばかりに意識が集中して、気がついたら冷蔵庫の中にいる自分に気がついた。冷凍庫でなかったのがせめてもの救いだ。
まいこに会いたい、まいこに会いたいと思っていた。しかし20年前のボスの一言に感化された自分により、ほとんど当時の仲間達との連絡手段を持っていなかった。自業自得だ。
幸運にも、まいこの旦那のごーきょーはお店をやっていて。下北沢へ。なかなか暇でない店内でごーきょーにひたすら愚痴を聞いてもらう。そしたらごーきょーが眼鏡をプレゼントしてくれた。
このメガネはただのメガネじゃない。
鳥の眼も虫の眼もそして内面も見つめらるメガネなのだと僕は妄想する。
人の優しさ。己の弱さ。そして何よりも仲間の大切さに、2024年12月末ようやっと気がついた。
シンプルな答えに辿り着くために20年もかかった。しかし20年で済んでよかったとも思う。
20年分の想いを込めた”ちーむ かぱ” が、ゆっくりと動き出す。
かぱとは英語のCup of tea の略だ。
どこにも属さない新しい演劇を見つめる。
緩やかな柔らかなそして重たい。ガトーショコラやチーズケーキのような。そんなこだわりの職人気質の焼き菓子を、お好みの紅茶を飲みながら、ゆったりとした空間を創るのだ。愉快な仲間たちと共に。
ごーきょーのお店。
https://matoi.main.jp
まいこ
https://note.com/tokyoasobi