カンムリキンバイ|衣替え
昨日のカンムリキンバイ↑と、今日のカンムリキンバイ↓です。見事に花を咲かせました。鮮やかな色が、まさに「夏」を運んできてくれています。眩しいです。
昨夜は風雨が強い日でしたね。みなさんのところは大丈夫でしたか?以前風の強い日にホタルブクロが折れてしまった経験を思い出し、昨夜は鉢植えたちをせっせと壁側に寄せました。おかげで今回被害はなく、むしろ今朝ではカラッと晴れた陽を浴びて、いぜんよりもたくましく葉を広げていたように思います。一晩でこんなに育つのかと言うほど。この生命力には励まされますが、台風も近づく季節、備えを今から考えておく必要がありそうです。
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気がつけばもう6月です。わたしは裏千家茶道を習っています。先日自粛を明けて久しぶりに稽古があり、先生のところへ伺いました。向かう途中で6月号の「裏千家グラフ」(裏千家茶道会の会員に毎月発行されるリーフレット。それにしても、なぜ「グラフ」なのだろう?)を読んでいたのですが、そこに書かれていたお家元の言葉によると、「6月は衣替えの季節」であるとのこと。来たる季節とどう折り合いをつけるか、その準備を含めた心構えをする季節である。と、こんな言葉が載っていました。
季節というのは、変化ですよね。このコロナ禍で自粛期間中、自宅に留まっていることが多かったせいか「今年は桜は咲いたのだっけ?」なんて考えてしまいます。もちろん、咲いているわけです。
変化を自分の身体で受け止めて、しなやかにその変化に沿って応対していくこと(私の先生は、「おもてなしというのはつまり、相手によって応答を変えていくことです」と言われていました。)。それは簡単なようでとっても難しい事のように思います。だって、自分を外の変化に任せていたら、じゃあ自分とはいったいなんだろう?と考えてしまいます。それに、一方で、変えたいと思ってもそんなに簡単に変えられるものでもないのだよなと、歳を重ねるごとに思ってきます。
宮台真司さんの『私達はどこから来て、どこへ行くのか』の言葉を引用します。
時代が変われば、人も変わるからです。正確に言えば、時代が変われば人も変わるという性質に関しては、人は変わらないからです。***変わらざるがゆえに変わりゆく人間たちの、どの位相に定位すべきなのか。そのことに果たして同意できるのか。実は大きな謎なのです
私はいま、ひとつの選択の前にいます。「夢だった、書籍制作を行いたい。」そのために決断をするかしないか。
一生を負うような深い後悔でない限り、大体の場合、夢というのは時間とともに忘れてしまったり、夢自体が変わっていったりしてしまう。あのとき私が目指していたものと、今のわたしが目指しているものは大きく形を変えている。今のわたしは、「今の道で問題なかった」と思う。けれど、あのときの私は?この結果に納得するのだろうか?そんなこともちろん誰にもわからないし、「今の道は間違いだった」なんてそんなきつい結論は、私には出せない。
変化の前にはいつだって慎重になるべきだと思う。変化は常にそばにあるものだからこそ、それが作用する力について考えを巡らせるべきだと思う。結局時を引き受けるしか無いのだから、だからきっとそのために「準備」することを怠ってはいけない。「しなやかに流動的でありつつ、いっぽうで軸になる思考を積み上げていくこと」。いつになっても忘れないようにしたい目標です。
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