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【書評】 江戸知識人の知的レベルが高い理由 - 『江戸の読書会』

本書は江戸時代の読書会である会読の具体例をたどり、会読の思想史を紡いでいる。

江戸時代の日本において、中国・朝鮮とは違い身分が固定されていたので、儒学を学んだからといって「立身出世」することができなかった。

それでも儒学を学ぶ読書会が盛んだったのは「本気で聖人を目指すため」と、「身分差を超えてディベートができるため」という理由があったという視点が面白い。

対等な他者を受け入れ競い合うことで、喜びに満ちた「遊び」の延長としての読書会だ。

著者紹介

著者の前田勉(まえだつとむ)は愛知教育大学教授で、1956年の埼玉県生まれ。

1988年に東北大学卒業し、1997年に「近世日本の儒学と兵学」で文学博士になった人物だ。

2010年『江戸後期の思想空間』で角川源義賞を受賞している。

本の内容

書名に「読書会」とあるが、江戸時代の主に私塾や藩校で行われた「会読」と呼ばれる授業形態及び読書方法についての本で、その発展史を辿ることにより「会読」が何をもたらしたのかを考察している。

「会読」とは簡単にいうと、数人で同じ書物を読み、その内容や意味を論じ語り会うことや、翻訳することを指す。(後者の代表例が『解体新書』の翻訳作業)

儒学の学習のために始まった会読は、身分制社会の中では極めて特異な、自由で平等な討論を許容し、対等な他者を受け容れ、競い合う場を生み出し、すぐに全国にひろがった。

会読において才能を発揮したのが吉田松陰や福沢諭吉らだ。

会読で培われた経験は、幕末の志士たちの連携、自由民権運動の学習結社、近代国家を成り立たせる政治的な公共性、これらを準備するものでもあった。

なぜかというと「会読」には相互コミュニケーション性、対等性、結社性という「三原理」があったからで、相互コミュニケーション性は異なる意見や考えに対する「寛容性」、対等性は身分や男女にかかわらない「人間の平等」、結社性は「思想・信条の自由」、といった精神を生み出していったからだ。

江戸時代の儒学の学び方

江戸時代において、儒学を学ぶやり方には、「素読」(音読と暗誦)、「講釈」(先生による講義)、および「会読」の3種類があり、初心者はこの順序で勉強を進めた。

最初の段階である「素読」だが、7〜8歳ごろから始めて、漢文の意味や内容を解釈せずに、ただ声を上げて、文字のみを読み習い、暗唱することを目指した。

素読での学習法は現在では全く目にすることがなくなったが、読書が「頭のなかで”声”をだして読む」という身体と結びついたものだと考えると、バカにはできない。

読まれたテキストは『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』で、この順番で学ばれた。

「講釈」は文字通り、先生が本に書かれた内容について講義をすることで、そのあいだ生徒たちは筆記をすることになる。

現代の学校授業で行われている一般的な教授法だ。

そして最後の「会読」は、上級者が自由闊達にテキストの解釈を巡って論じ合うことだが、「読む会読」と「講じる会読」の二種類が存在した。

「読む会読」は、集まったみんなでテキストについて話し合い、テキストの内容を理解することを重視することだ。

対して 「講じる会読」は、テキストの内容理解に加え、講じるものや反論する者の意見や態度も重要になる。

おわりに

明治時代では残念なことに、西洋式の効率を重視した教師による「一方的な教育」が普及するにつれ、会読による学びの場は公的教育からはほとんど消えてしまった。

「明治以降の近代日本社会は立身出世主義のはびこる競争社会であり、現代もなおそこから逃れることはできない。だが、競争社会に息苦しさを感ずる現代人にとって、参加者が自由に語り合える読書会は、日常生活とは別次元の社交の場であることで、積極的な意味を持っている。江戸時代の会読がこの現代の読書会に蘇ることになれば、私にとって、これ以上の喜びはない」。

と、著者が本書を締めくくりに述べていることに100%同意だ。

人口減少や衰退する経済など、閉塞感がただよう現代日本において、競争やお金だけでは図れない「知や心の豊かさ」を取り戻すために、「読書会」の存在意義が見直される時期に来ている。

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