「戦後史学のメタヒストリー」の一部(『岩波講座 日本通史 別巻1 歴史意識の現在』16~19頁)
問題意識を強調するために「進歩派」の同質性を誇張してきたが、いまや彼らをふたたび多様に分散させねばならない。戦後日本の歴史家は決して単一の視点から書かなかったし、集合的な声をもつこともなかった。進歩的歴史学の風景は広範で、多様な立場、方法、アプローチを含んでいた。彼らを結びつけていたのは現状に対するはっきりした対抗的立場と、より良い近代(その内容は多様であっても)へ方向づけられた歴史研究であった。同様の対抗的スタンスはその他の国でも現われてはきたが、日本ほどそれが支配的であった国はない。皮肉にもこの国は通常、権力に対する中毒的な合意によってステレオタイプ化されているのであるが。
進歩的歴史学は戦後の日本の学問上きわめて広い空間を占めていたがゆえに、「戦後歴史学の終焉」は大きな穴を残した。多すぎる個別研究、総合の欠如、少なすぎる政治、社会史の氾濫、そして知的ダイナミズムの欠落。このような(他の国とも)共通する批判は、進歩的歴史学のための葬送曲であるかのようである。この場合の死は相対的なものであろう。古典的あるいはポスト古典的マルクス主義歴史学はほとんどの国で消えつつあるが、それが取り組んできた問題そのものは、新しい方法と言葉とコミットメントによって探求されるのを待っている。私がアメリカにおいて「新新社会史」と呼ぶところのものは、そのダイナミズムを、ジェンダー、エスニシティ、セクシュアリティに関する社会運動のために、理論と新しいデータと問題意識を融合させることによって獲得している。そして南アジアにおけるいわゆる「脱根底主義的歴史(post-foundational histories)」は、第三世界を世界史における周辺的な位置から解放したいという衝動から概念的なエネルギーを得ている〔Prakash - 1990〕。日本を含めた多くの国において、歴史家が民衆の記憶に関わっていることが現在との密接な結びつきを表象するものであり、そしてそれが新たな問題と歴史を生んでいくのである。進歩的伝統の後に残された空間にはすでに新たな住人が入りつつある。
日本の歴史学の地図において、進歩派以外の部分は、よくみえてこなかった。それは進歩派という標準で計測され、また自らをそれに対して決定した。「実証主義」の場合を考えてみると、それは戦後の進歩的歴史家によって、「政治へのアレルギー」や「歴史法則への嫌悪」として否定的に定義されてきた。歴史家が肯定的にこのラベルを自称する場合には、彼らは自分が非もしくは反マルクス主義者であることの主張であり、また思想より資料に沈潜するものであることを意味していた。こうして「実証主義」は、実際、そうでないものによって定義される、没カテゴリーである。そこに含まれるのは、漢学とドイツの文献学が混在する古代史や中世の古文書学、岡義武などの二〇世紀の法制史や憲政史や大正リベラリズムの伝統、あるいは坂野潤治のような近代の政治史や外交史という多様な要素である。しかし、「実証主義」が没カテゴリーであるにしても、それは没立場ではなかった。彼らは、左派的、あるものは右派的な強い政治的立場に立つこともあった。逆に進歩的歴史家自身が文書への強い偏愛的傾向を有していたので、「実証主義」は実際、歴史学の地図のあらゆる場所に見いだされる。
他方、保守的な歴史学の場合には、地図上の位置づけははっきりしていたが、進歩派のヘゲモニーによって周縁化されており、単一の名称をもたず、進歩派以上に同質的でもなかった。彼らをナショナリストあるいはネオ保守主義者(進歩派の語法では彼らは反動であるが)と呼ぶことが適切であろう。あるものは歴史ではなく他の分野に棲息しており、あるものは左派から右派へと転向したかつての進歩派である。そしてそのほとんどが、自らがそのカテゴリーに入るとは考えていない。彼らの保守主義は、一生を通じた歴史叙述というよりも、一つの著作のなかに現われる場合が少なくない。桑原武夫の明治維新論、林房雄の太平洋戦争論、伊藤隆のファシズム論。彼らは、近代日本に対して結局のところ批判するよりも肯定する立場をとっているということをのぞけば、ほとんど共通点をもたない。場合によっては彼らの歴史学的なすみかを文化と文明のなかに見いだし、日本の伝統の積極面を強調する傾向があった。例えば、江戸時代の達成を、単に近代日本にとってのみならず、より広い人類文明の模範として賛美した一九八〇年代の記述の一部は、彼らの業績であった。
保守的歴史家は、歴史学の周縁にいるか、司馬遼太郎のようにギルドの外にいるか、あるいは奇妙なことに反対派として活動することになってしまった。その異議申し立ての声は、大きな影響を残すことはなかったが、とぎれることなく唱え続つづけられた。長い間閉じこめられていたかのようであった彼らの肯定的な歴史観は、七〇年代後期から八〇年代に新たにその姿を現わし、時代精神に合致し、影響力を増していった。一九九三年にある社会学者は、マルクス主義のパラダイムの消失とともに日本には「保守主義だけの一元的世界!」〔富永-一九九二〕が残されたと強調した。そのような完全な「パラダイム・シフト」はありそうもないが、ネオ保守主義の問題意識が日本の歴史学をどのように変えていくかは次の世紀の問題であるように思われる。
(キャロル・グラック)
(2021年1月29日の前のブログの投稿から転載)