note記事「魂飛ばしが能動性を取り戻す」に描かれた体験談を教育の参考にすると、どのように/なぜ危ういか
子育て論/教育論は、割と個人的エピソードが力をもちがちで、エビデンスのないものがまことしやかに拡がるすることは珍しくありません。そして、今回の事例はさすがにどうかと思って筆をとりました(タイピングですが)。
それに、元記事が、ある程度読み物の体裁をしている(つまり一般に読まれようとする)上に、強い影響力を持ちかねないくらいにバズってしまっているため、その語り方の危険性について、何か言わざるを得ないと思いました。
問題の子育て論はこちら。「『魂飛ばし』が能動性を取り戻すまで」という記事。
この教育論、子育て論の存在を知ったのは、発達科学者で作業療法士、公認心理士の萩原広道さんの記事「『魂飛ばし』の実践を、私たちはどのように受け止めれば良いか」を通じてです。こちらも必読。
1.元記事の内容と私のスタンス
元記事の、篠原さんの「魂飛ばし」というのは、ちょっとぎょっとする言葉遣いですね。ただ、「魂飛ばし」を平たく言い直せば、「ボーっとする」「心ここにあらず」という状態のことで、特に勉強との関連において、「集中からほど遠い」というニュアンスが託されています。
それに対して、「魂召喚」というのは、我に返させるということです。ここで問題なのが、そうして心ここにあらずな状態から我に返させるために、「机を叩いて大声を出す」というやり方を採っていて、これを「いい話」、「うまくいった話」として紹介していることです。
(もちろん、元記事の方の教育に向かう思いの真面目さを否定するものではありません。親愛の情があったことでしょう。しかし、思いや動機が健全・純粋でも、結果が望ましいもの限らないし、むしろ危険でありうるということを知っておく必要があります。)
いや、記事内の関係性においては、うまくいったし、よかったのかもしれない。しかし「魂召喚ええやん!」「素敵な話!」と素直に読んで好意的な反応を示す人がかなりの数いる以上、この手法や考え方の問題点を指摘せざるをえません。つまり、元記事への共感的な読者に対する注意喚起として書いています。
萩原さんの記事では、言葉を冷静に選びながら注意点がいくつか指摘されています。そこで出た話を再話しても仕方がないので、まだ指摘されていないことや、指摘されていることの別の側面について書きたいと思います。また、萩原記事と違って、私は明確に批判的な視点で書いていきます。
そして重要なことを繰り返します。何より以下の指摘や批判が、元記事に当てはまるという話で必ずしもありません。あくまでも、あの記事を読んで好意的な感想を持った人、実践しようと思った人に向けての注意喚起です。
つまり、この記事では、結果的に成功した個別事例を、個々人が真似ることの危うさについて書いていきます。(従って、個々人の取り組みを批判するというより、そこでの子どもとの関わり方や語り方と、その危うさを論じるものだということです。)
こんな記事、誰が読むのか……とも思うのですが、こんな風に断りを入れているのは、この記事で扱っているのは、元記事に表れている「教育的介入」や「子どもとの関わり方」という行為的な側面であって、特定の個人ではないということにも注目してほしいからです。そういう書き方をしているからこそ、ここに書いている見方や言葉を、個人や人格を攻撃する武器にしてほしくないと思っています。
要するに、以下の文章は、あくまでも、個人の体験談に感銘を受けて子育て/教育すると色々な危険があるから、素直に真似したり、迂闊に実践したりしないで!!!という話として読んでもらえればと思います。
2.恐怖による条件付けになりかねない
まず、「机をたたき、声をあげて注意する」というのは、たとえそれほど大きな音でなくても、信頼関係のある間柄でも、恐怖を与えるだろうことだというのは確かなことです。
たとえ事前に予告されていても、急におどかされたなら「ビクッ」とするはずです(それを狙っているわけなので当然ですが)。そして、このびっくりする体験が「この人といる限りずっと続く」ということがいかほどのものかと想像してほしいところです。
家族や友人であれ、驚くものは驚くし、「この人といて、特定の行為をしているときは常にそれを気にしなければならない」と感じなければならないとすればどうでしょうか。
もうこれ、恐怖による条件付けですよね。
でも教えない。ただ、様子を見てる。
こんな一節が、元記事にはあります。しかしただ様子を見るだけなく、驚かせているわけですよね。実際、上の文章は、こう続きます。
魂が体を抜け、目がうつろになり、どこかへお出かけしようとすると、テーブルをバーン!と叩き、「ほら!いま、魂が出て行ってたぞ!」と大声で言い、魂召喚。
他の子どもなら傷として残りかねない仕方で関わっている。無為ではなく、広い意味での「教育」「介入」。それも、恐怖に基づく条件付けを用いながら子どもに介入している。
ただ、元記事を読めばわかりますが、実践している方に悪意はないはずです。その点も明言しておきたい。
しかし「害そうとする意図を持っていないこと」「悪意がないこと」が、害したこと、害したかもしれないことを免責するわけではありません。(パワハラ上司が「部下のためを思ってした」ことの結果、その部下が休職したら、上司に悪意がないからといって問題はなくなるのでしょうか。)
あと、19世紀末の動物心理学者を連想とさせる古色蒼然たる「刺激-反応モデル」で、人間の子どもに相対していて、(しかもそれが美談として語られていて)正直ショックでした。
3.原因をあれこれ考えて、環境整備を模索した方がいい
人が「ボーっと」してしまうという話でした。それも繰り返し「ボーっと」してしまう。
そもそも、それはなぜ生じているのでしょうか。
友人と遊んだり、部活をしたり、習い事やバイトや家事手伝いをしたりすることに、人よりも身体的な負担を感じる性質で、へとへとになっていることがありうるでしょう。
そもそもテキストが合っていないとか、学校の先生の教え方が合わないとかかもしれない。
頭に言葉が多すぎるのに、それをうまくまとめることができなかったり、出力する語彙力や、口に出すためのコミュニケーションの経験が少なかったりして、頭の中が落ち着かず、どうすればいいかわからないのかもしれない。
環境の刺激が強すぎて、そわそわするのかもしれません。モノがあふれていて、色々なパッケージからの文字情報や色情報などが多く視覚的刺激が多いだとか。あるいは、踏切や高速、学校の近くで、音が常にガヤガヤしていて、聴覚的刺激が煩わしいだとか。
こうした場合、大人にできることは、「集中できていない」という症状にアプローチするというよりも、こうした原因を推測しながら、子どもが集中しやすい環境を整えることのはずです。
「子どもがボーっとしている」⇒「大声と机で何とかしよう!」という対症療法ではなく、「子どもがボーっとしている」⇒「なんでボーっとしてしまうんだろう…? 何かあったのかな」という頭の働かせ方をした方が、いいのではないでしょうか。(なぜその方がいいかは後述)
一概には言えないこと、本当のところどうしてか複数の原因がありうるような、複雑な出来事を「魂飛ばし」などと、ざっくりした、ちょっと目を誘う言葉で括って、理解した気にさせてしまっている。そんな悪意はもちろんないでしょう。そこは疑っていません。しかし、そのような言葉遣い、レトリックを元記事は提供してしまっている。
言葉は人を傷つけるし、切れば血が流れるものだと思います。(バズったことに罪はないですが)広く読まれ、関心を誘い、共感すら呼んでいる以上、元記事の言葉にはその分、責任が生じてしまっている。
さておき話を戻しましょう。
後に改めて述べることですが、私たち大人が率先してやるべきことは、症状の背後にある原因にアプローチして、それが負担にならないように環境を整えるということであり、極端な話、それに尽きているとすら思います。
「教えない、様子を見る」というなら、ここで紹介したような別の「様子を見る」やり方が試されてもよかったはずです。(実際、そのような模索がなされた可能性もありますが、そうなら元記事でも補足してほしかったところです)
ちなみに、発達科学者のアリソン・ゴプニックが書いた『思いどおりになんて育たない』という書籍の書評(の後半部分)で、大人が環境を整備する責任について書いたことがあります。参考までに。
4.離人的な状態かもしれない
例えば強い衝撃的な体験があったとき、体と心が切り離されたような、自分が自分自身である感覚を失うような、「この目の前の現実を生きている」という感覚をなくすような状態に陥ることがあります。自分の言動、感覚、思考にリアリティがなくなると言えばいいのでしょうか。膜越しに、世界と関わっている感覚です。
これが数年とか数十年にわたる場合は、離人症などと診断されることになるはずですが、診断とまではいかなくとも、鬱病やそれに類することを軽度でも体験したことがあれば、感覚的にわかる/想像できる状態ではないでしょうか。
何かトラウマ的な体験があったり、抑圧していた過去の記憶がフラッシュバックしてPTSDに陥っていたり、自分がされた被害を明確に憶えていないままに心は血まみれだったりすると、その被害や原因については周りに(家族や恋人、友人にも)話せないまま、離人的な感覚を抱き、「なんとなくボーっとしている」「時々急に怒り出す」「いつも暗いし無表情だ」といった印象を周囲に与えているということがあるかもしれません。
もしそうなのだとすれば、原因を間違えているし、離人的状態にある人を軍隊的なトレーニングで無理させて、よりつらい状態に追い込みかねない。
もしかすると誰にも気づかれず、場合によると(つらくて)本人すら記憶の奥底に隠し込んで気づかずに苦しい状況にいるのかもしれないと、その子どもの様子を観察してみる段階があってもよかったと思います。
ボーっとする原因が一種のトラウマや強い精神的ストレスなら、子どもが決してひとりでにそこから出られることを素直に期待できるわけもないはずで、周囲が適切に様子を見て、慎重に関わり方や環境のあり方を模索するプロセスが必要になってきます。
(もしそうかもと心当たりがあるなら、たとえあなたがどれほど親しい間柄でも、無理に聞き出したりしようと絶対にしないでください。二次被害が起きて、より傷つけてしまいかねない。また、「離人症だ」などと勝手に判断せずに適切な機関にかかるようにしてください。個人的な思いつきで誰かを癌だと判断しないように、勝手に個人が診断せずに専門家を頼ってください。)
※元記事の子どもが離人的状態だと言っているわけではありません(たぶんそうではないのでしょう)。繰り返しになりますが、この記事は、「この子は『魂飛ばし』だ!」と思って、何も疑わずに文字通りのことを、これから実践するかもしれない人に向けて書いています。
5.語り口が自己責任論になってしまっている
魂飛ばし/魂召喚論の最大の問題だと私が感じるのは、ボーっとしてしまう、心ここにあらずになってしまうという状態を、「その子」の問題にしてしまうことです。
もしかしたらトラウマ的な経験があるのかもしれない(誰にも言えなかったり、本人も抑圧して忘れてしまっていたりするだけかもしれない)。
何か落ち着かない原因が環境にあるのかもしれない(この辺りは、下記記事と動画をご覧あれ)。
定型発達でないとか何か事情があるのかもしれない。
こうした様々な個別事情があるかもしれない。子どもはそのことを気づかないか、知らないか、言えないのかもしれない。
それにもかかわらず、「魂飛ばし」「魂召喚」論のように、「ボーっとるなら、その都度机でも叩いて機械的に我に返せばええんや」という乱暴な見方を子どもに向けてしまうとき、あるいは少なくともそう理解されかねない言葉使いをしているとき、子どもの状態をなんとかすることだけが問題の照準に収まっていて、環境や大人のことが話の埒外にある。
魂召喚論のように子どもを「矯正」しようとする介入は、子どもの状態を自己責任論的に捉えかねないような視点や言葉で満ちています(悪意がないのは確かですが)。しかし、大人の側でもっとあれこれ工夫したり、想像したり、観察したりする、模索や試行錯誤のプロセスは必要なかったのでしょうか。
結果的に、事の原因は集中できていないその子どもにあるということになってしまう。そんな意図がなかろうとも、基本的に問題は「その子ども症状」であって、それを「矯正」しようとしているわけですから、やはり自己責任論的な語り口だと言えるでしょう。
対症療法を美談のように語り、流布させてしまうことには、このように大いに危険があると思ったので縷々書きました。
教育は常に共同作業であり、主役は子どもです。大人は、子どもが歩き回り、実験できる環境を整備するのが仕事だと私は考えています。
6.おわりに:大人がまず自分の不安に向き合うこと
教育とか子育てとかって、とかく「私はこれでうまくいった」という体験談、そして「こんなにすばらしい子どもに育ちました」「こんな関係性にまでなったんです」という美談が語られ、強い影響力を持ちがちです。
ですが、大抵エビデンスがなかったり、(論文の読み方を知らないために)牽強付会でエビデンスあるっぽく見せているだけだったりする。
教育や子育てにおいて、わかりやすさがありがたがられ、求められる背景にあるのは、何か問題があれば「わかりやすい解決策」で何とかしたくなるという、大人の不安があると私は思っています。
過去にこのように書いたことがあります。
……教育状況について不安を煽られるたびに、私たちは咄嗟に「何を教え込めば、この問題は解決するだろうか」という思考の習慣を発動させがちだ。(中略)しかし、こうした不安は……私たちの生活に、具体的な不安として転がっている。「泣いた子をあやしすぎると、泣き癖がつく」「泣いた子は抱っこしないと」「こういう本を読むと子どもがダメになる」「そういう声かけは、子どもに悪影響を与える」「スマホ依存症というのがあるらしい」「幼いうちから英語に慣れておくべき」
このような不安を共有する一人の大人であり、発達科学者でもあるアリソン・ゴプニックは、研究者として、このような趣旨のことをコメントしています。
〔ゴプニックは〕産業やメディアによって煽られる子育ての不安は、そのほとんどが無根拠であると指摘する。ゴプニックによると、子育てにおける小さな意志決定――寝るときに添い寝をするかどうか、泣いたら寝るまで抱っこするか泣かせておくか、宿題以外にも勉強させるか遊ばせるか――が、長い目で見て、子どもの成長に影響を与えるという証拠はほぼない。育児産業、教育産業が煽る規範の大半は、長期的に見て、大したことではないし、むしろ、その規範が事態を悪い方へ導くことの方が多い……。
そして、そのことを私はこう総括しました。
私たちは、子どもを愛するあまり、子どもの将来に対する不安を、子ども自身に押し付けてしまっているのかもしれない。そうだとすると、何か問題が生じたときに必要なのは、子どもに直接的な解決策を「教え込む」ことではない。むしろ、大人の側の振る舞いを反省することではないか。
愛は必ず幸福に寄与するものではない。けれども、私たちはそれなくして生きていけない。不必要なものでもない。しかし、年少者への愛情を成長や発達、さらには幸福につなげたいのであれば、私たち大人は、自分自身の不安と向き合わなければならない。
手っ取り早く何とかするなどできません。子どもごとに、場面ごとに、関係ごとに、目的ごとに対処が変わります。試行錯誤はその都度必要です。「これさえやればいい」なんて万能薬はありません。そんな単純なやり方で人の成長や育ちに関わることを片付けようとする心持ちの方をまず省みてください。
子どもを都合よく動かすことも、対症療法的に相対することも、望ましいことでは決してありません。
どうか、元記事をうのみにして応用可能な話だとは思わないでください。それをうのみにして、真似してみようなどと思わないでください。
※上の引用は下記記事より。
そしてそして、最後に注意事項を繰り返しておきます。以上の指摘や批判が、元記事に当てはまるという話ではありません(結果的にうまくいったのでしょう)。この記事でもって元記事の方を攻撃するというのは、もってのほかです。
つまりこの記事は、あくまでも、あの記事を読んで好意的な感想を持った人、実践しようと思った人に向けての注意喚起であり、結果的に成功した個別事例を、個々人が真似ることの危うさについて書いています。攻撃ではなく、自分をかえりみるために読んでもらえればと思います。
谷川嘉浩