ソクラテスの痺れ、ジョン・デューイの揺れ——ジョン・デューイ本連載①
書籍化を目的とした連載です。走りながら書いていくつもりの内容なので、本の素材になるようなものが積み上がり、結果として書籍では読めない話がたくさん読めると思います。
今回は、ジョン・デューイという私の研究している哲学者をテーマにした新書のための文章です。KADOKAWAから出ます(刊行時期は不明)。
『習慣と実験の哲学:ジョン・デューイと「知覚」の教育』というタイトルはどうかなと今のところ思っています。
デューイ研究を目指す学部生や院生のための、デューイ哲学への入門というよりは、〈デューイという人を通して、とある見方に慣れてもらい、その中で哲学の香りをかいでもらう〉という体験を広く読者に提供することを目標にしています。だから、習慣などというテーマ的にも途中ビジネス書の話も出そうかなと思っています。
仮タイトルを置いていますが、想定からズレる可能性は大いにあります。悪しからず。
『習慣と実験の哲学:ジョン・デューイと「知覚」の教育』①
「はじめに——ソクラテスの痺れ、ジョン・デューイの揺れ」
哲学と〈揺らす言葉〉
哲学と聞いて、大抵の人は、論理的で筋道立ち、堅牢で複雑な、折り目正しく積み上げられた言葉の連なりを想像するでしょう。それは、たぶんその通りです。
長くない断片的な文章の連なりを書くことを選んだフリードリヒ・ニーチェのような哲学者もいますし、パフォーマンスレベルでも自身の哲学を実践するような実験的な文章を書いたジャック・デリダのような人もいるものの、基本的に上のようなイメージは当たっていると思います。哲学者は、筋道立った思考と言葉を積み上げることに確かに力を注いできました。
仮にそうだとしても、哲学が平穏で飼い慣らされたものであり、穏当で順当な言葉を使うはずだと考える理由はありません。哲学の言葉には、何か手に負えないところがあり、私たちの喉元に鋭いものを突きつける剣呑さが含まれていると考えることもできます。つまり、哲学の言葉が日々の私たちに差し戻され、日常や行動、文化や暮らしを新しい角度で照らすことで、私たちのあり方を書き換えてしまうような役目を帯びることもあるはずです。
〈フラットで無害な言葉〉と、〈揺らす良識ある言葉〉の違いだと表現してもいいかもしれません。後者が人の心に住み込んで、そのあり方を揺らし変えていく潜在性を持つのに対して、前者は受け手と交流を持たない無味乾燥な情報として通り過ぎられます。別の仕方で言えば、〈独り言の言葉〉と〈書き手と受け手の間で会話が始まる言葉〉の違いです。
2500年ある歴史の中で、過去の哲学者たちも、「哲学は単なる言葉や文章の連なり以上のものだ」という趣旨のことを度々主張してきました。ここでまず挙げたいのは、古代ギリシアのアテネで活躍し、プラトンの学園で学んだアリストテレスの言葉です。
「知恵を愛する」とは、philosophyの語源的なニュアンスを活かした訳語です。なのでこの話は、「哲学する」ことそのものを指していると考えて構いません。
哲学はただ議論っぽければいい、哲学は認識に限った問題にすぎないという発想の安易さをアリストテレスは批判しています。むしろ大事なことは、その先にある。哲学することは、抽象的な意味内容を扱うことで完結できるわけではないということですね。
この考えは、「政治学や倫理学は、誰でも準備なく学べるものではなく、様々な行為について豊かな経験があるか否かが大切であり、若者はこの講義の聴講者にふさわしくない」と述べていることからもわかります(同書p.32)。哲学の言葉は誰かを揺らす言葉だが、揺らされる側にもそれ相応の対応や技量が必要なのです。つまり、哲学の言葉は、受け取る側にもそれを裏打ちして受け取れるだけの経験が求められるというのです(アリストテレスは注意深いので、「ほんとは年齢だけの問題でもないよ」とも付け足していますが)。
今しがた見たアリストテレスの言葉は、『ニコマコス倫理学』という本のものなので、善さや規範、生き方について特にフォーカスを当てた「倫理学」という特定ジャンルに限定されたものだと捉えることもできなくはありません。しかし、彼のような発想は彼に続く哲学者の中に何度も登場します。
アリストテレスは紀元前の人なので、もっと現代に近い人の声も聞いておきましょう。ここで引用するのは、20世紀フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティです。
紀元前のギリシアと20世紀のフランスではメディア環境(書物のあり方)が何もかも違うので、単純に並列することはできませんが、「哲学は単なる情報ではないし、抽象的な言葉に完結するものでもないのだ」という趣旨は、アリストテレスとメルロ=ポンティに共通しています。
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