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偏愛のすすめ
偏愛とは究極の娯楽です。
推し活という言葉がメジャーになってからそこそこの時間が経ちました。この言葉は、ファン個人の自己満足のためでしかなかった活動にある種の正当性というか、「説明のしやすさ」を与えてくれました。
ー 月1回は必ずライブで遠征してます!
ー ひとり暮らしの部屋は写真集やポスターで埋まってます!
ー 限定版の円盤ほしさに定価の10倍で競り落としました!
こんなことを言っていると、以前であれば必ず付いて回った質問がありました。
「どうしてわざわざそんなことを?」
「好きなのはわかるけど、やりすぎじゃない?」
この言葉は別にファンの人格を非難しているわけではないのですが、「無駄遣い=悪いこと」だという価値観が滲み出ていて、どこかネガティブな印象を与えます。
でも推し活という言葉ができて、応援したい人のために金を遣うことは社会的に、すごくはっきりと認められました。特定の推しがいないと、ちょっと寂しい人だな…と思われているような気すらしてきます。
わたしは推しがいないことがちょっとしたコンプレックスです。
人を応援するということに気持ちとお金を使えない、ケチな人間だな〜〜!と思います。
でも一方で、わたしには何年もの間こころの中で大事に大事にあたためてきた人や物への愛情が、たしかにいっっぱいあるのです。
一つ前の記事でわたしの大好きな曲「太陽は夜も輝く」や、お気に入りの漫画たちについて書きました。書いている途中、我ながらスキが溢れてるな〜と思って幸せでした。
でもこれを推し活と言うにはちょっと抵抗があります。お金も時間もそんなに費やしてはいない、だから人にわたしのスキが見えることもほとんどないけれど、実は事あるごとにそれについて思いを巡らしている「何か」や「誰か」。
スルメのように何度も何度も咀嚼されたそれは、いつしかわたしの一部になって自家発電をはじめます。
公式の供給がなくっても
一生ファンサをされなくっても
人に1ミリも理解されなくっても
それを好きな仲間が1人も見つからなくっても
自分がそれを好きな気持ちだけで一生楽しめる気がしてくるし、時にはそれが出かける理由になったり、他の作品に興味を持つきっかけになったりする。
そういう気持ちを私は偏愛と呼びたいです。
流行らない歌、古い小さな店、どこにでもあるような神社、通学路ですれ違う名前も知らない子、手触りのいいノート、美味しいよりも嬉しいが勝つ味。
そんな偏愛をたくさん語ったり読んだりできれば、推しに潤いを貰えないわたしでももうちょっと世界をキラキラのレンズで覗くことができるのでは、と思いました。
ちょっとずつそう言う記事を集めていきたくて「VIVA!偏愛」というマガジンも作ってみたので、一緒に誰かの宝物を眺めてくれるひとが増えたらいいな、と思います。
お読みいただきありがとうございました!