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イタリアの海辺でバラの花束をもらった話

晴れた午後に、ナポリの海辺で真っ赤なバラの花束を貰ったことがある。


文字にすると嘘みたいにドラマチックだが、実際はそんなに美しい話というわけでもなかった。

わたしは大学時代、色々あってイタリアへ留学に行っていた。イタリアの最新の学問や文化の中心地といえばミラノで、縦にながーいイタリアの中でも一番北の方にある。北の人は、イントネーションが柔らかくて上品な方言を話す。観光客が多く、フランスやスイスとも国境を接しているので比較的外国人慣れをしていて、英語が通じる。
そこから南に行くほどに方言は粗くなり、閉鎖的な傾向も強まっていく。イタリアがまだ小さな都市国家の集まりだった頃の文化を強く残し、同時に最近のアフリカ方面からの不法移民が多く生活するスラム街が目立つようになる。

ナポリはそんな南イタリアを代表する大都市だ。
いくつかの城塞を中心として旧市街が広がる。石造りの立派な街並みだが、ローマやヴェネツィアほど観光地化はしていないので、一歩路地裏に入ると頭上にはどこのおっさんの物ともしれないパンツがポタポタ水を垂らしながらぶら下がっていたりする(ベランダのない家が、隣の家の窓との間に洗濯ロープを張るので。)
また治安が悪く、日本人の若者が1人で歩いているとピストルで脅されてiPhoneを盗られた、というような話も転がっている。
大学から駅までの通り道に、マフィア絡みの抗争がよく起きるブロックがあり、留学生はまず初めにここへ案内されて決して1人で近寄らないようにとの注意を受ける。
駅横の通りを一本入るとどう見ても違法な蚤の市があって、中身が半分くらいしか残っていないブルガリの香水やら、一見本物かと思うようなプラダのバッグやらを、ビニールシートの上に並べて売っている。

そんなカオスを煮詰めた街だが、一方で海沿いの散歩道は文句のつけようもないくらいに美しかった。
地中海の明るく凪いだ水面、道沿いのオープンカフェ、オレンジを直絞りする屋台、カーブを描いた海岸線に沿って石畳と胸の高さまでの堤防が続く向こうに、ポンペイの街を灰に沈めたヴェスヴィオ山がぼんやりと見える。

とにかく日本人の少ない場所だったので、私はちょっと暇になるとよく1人で散歩に出かけた。数人いた留学生仲間と集まることもあったが、それぞれナポリというマイナーな留学先をわざわざ選んで来ているだけあって、四六時中群れるようなことはしなかった。

その美しい海沿いで私がアフリカ人に会ったのは、渡航後半年が経ってそろそろ毎日に飽きが来ていた頃だった。
晴れた休日の午後、その人は堤防に腰掛けて仲間とだべっていた、のだと思う。
ナンパ目的とか、そういう雰囲気はなかった。
というより、ナポリの地で日本人が正面からナンパの対象になるなんてことはそうそう起こらなかった。
夜のクラブやバールで誰かと仲良くなることはあったが、それはこちらが日本人の留学生だと自己紹介した後のことがほとんどだった。

なぜかというと、イタリアには当時中華系移民が溢れていたからだ。イタリア人の多くは大して多くもない働き口を中国人が丸ごと奪っていくことに怒っていて、アジア人と見ると平気で悪口を言ったり石を投げたりした。
日本人だと名乗るとその態度が一変するのがとても居心地悪かったのをよく覚えている。

そんな扱いに慣れていたので、こちらが何人か聞いてくることもなく雑談を仕掛けてきたそのアフリカ人の存在は、とても珍しかったのだ。

なんとなく雑談をして、なんとなく連絡先を交換し、近くに売っていた適当なジュースを一緒に飲んだ。普段はあまりコミュニティが混じらない分、独特のノリが新鮮で楽しかった。



てっきりそれきりかと思ったが、その人からは数日に一度メッセージが来た。〇〇で飲んでるよ、駅前のピザを食べているよ、というようなふわっとした誘いだった。毎回適当に返事をして、その近くの美味しいジェラートやさんをおすすめしたりしてやり過ごした。

その次にばったり会ったのも、1度目と同じ海沿いだった。
職場が近いのだろう、前回と同じように数人で集まって喋っていた輪の中から、私のことを呼びながら飛び出してきた。
いい店を教えたお礼に近くのジェラートを奢ってくれるという。
例によって暇だったのでありがたくもらうことにして待っていると、戻ってきたその人の手にはジェラートの他に真っ赤なバラの花束が握られていた。

ナポリは情熱の街らしく、街中の至る所をバラ売りがねり歩いていて、カップルや夫婦が食事をしている店に近づいてはバラを一輪ずつ差し出して日銭を稼いでいた。
珍しくもない光景だったが自分がもらうのは初めてで、しかもそれが一本きりではなく何本も束になった豪華な物だったから、私はびっくりしてドキドキしながら受け取った。

その後2人で海を見ながら喋っていたら、
「何か日本の歌を歌ってみてよ」と言われた。
私は何を歌おうか考えてみたが、元々音痴なのとロック系の音楽が好きだったのもあり、迷った末に君が代を歌ってみた。
ワンフレーズだけだったがこれは結構好評で、ゆったりした美しい旋律だと言って褒められた。

日本ではちょっと経験できないようなふわふわした時間が終わって、また会おうという約束だけして海辺で別れた。

その人からのメッセージをブロックしたのは、その翌日のことだった。


なぜかと言われると難しいが、たぶん急に怖くなったのだと思う。
もしこれが恋だったらよかった。
私は日本に彼氏がいて、彼氏のことはずっと好きだったが、留学中にちょっと遊んで隠し通すくらいのことはきっとできたと思う。
それか本気になれれば彼氏と別れることもあっただろう。

でもそれは確実に恋ではなかった。
なぜって、私はそのアフリカ人の出身国もきちんと覚えてはいなかった。
「アフリカ人」と人を括るのが、アジア人を一括りに差別するイタリア人たちの態度と同じ物なのは気づいていたのに、結局私はそれをやめられなかったし、わたしはアフリカ人を本格的に自分の人生に組み込む覚悟ができていなかった。

留学はわたしの夢を叶えてくれたし、わたしに自信を与えてくれたけれど、この時のバラの花束のようなちょっとした事件を通して私の器の小ささや安定志向を逆に炙り出していった。

過酷で綺麗でロマンチックで退屈でボロボロな毎日だったけれど、最近になってまたナポリでしばらく暮らしてみたいな、と思う。
自分のキャパを拡張しようと必死に動き回っていた大学生の時よりは、今の方がきっと誠実な関係をナポリの人たちと築くことができるような気がする。
日本とは全然違う街だったけれど、あれはあれで温かい街だった。一度懐に入った人間にはとことん親切だったし、みんながナポリのダメなところをどこか愛しそうに話すところには間違いなく地元愛を感じた。日本の都会と同じく生粋のナポリ人よりも周りの村や街から集まってきた人間が大多数で、不法移民や外国人の数もかなり多かったにも関わらず、ナポリはつねに私たちのナポリだった。

私たちのナポリに住みながら、そのナポリに完全には受け入れてもらえない異物としての私たち。
もし仕事と家族を持って戻ったら、あの街はどんな表情を見せてくれるだろうか。

いつかまた一年、ナポリに戻って住んでみたい。その時は夫(当時の彼氏)を海辺に連れて行って、あの時もらったような花束を渡したい。喜びはしないだろうけど、あのとき無責任に受け取ってしまった花束の思い出が書き換えられるような気がするので。


以上、思い出の記録と供養として、初めて文字に起こしました。


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