好きなものには無駄を、嫌いなものには意味を
当然と言えば、当然なのかもしれない。
好きなもの、例えば趣味などがそれに充たるが、やりたいからそれをやっていると思う。特にそれをやる理由や意味を求めず、“好きだから“、“楽しいから“、“面白いから“それを行う。
僕はランニングが趣味だが、あまり共感されない。なぜランニングが好きなのか自分でも分からない。また計算することが趣味だ。いくら出せばお釣りが最小枚数になるのかの計算や、街にある数字を素因数分解、車のナンバーを四則演算を用いて10を作る遊びをしている。何が楽しいのか、どこに面白みを感じるのかは分からない。ただ面白いし、楽しいし、好きなのだ。別にこれらを行なっていいことはない。ランニングは痩せられるかもしれないが、それを目的で走ってるわけではない。この言い換えが正しいかは分からないが、無駄なことをやっていると思う。
反対に嫌いなものや、やりたくないものには、「なぜそれをやるのか」などの意味を常に考えてしまう。学校の勉強が嫌だという人は「なぜ社会の役に立たないものを勉強するのか」と考えているだろうし、人混みやイベントごとが嫌いな人は、「わざわざ人がいるところになぜいくんだろう」なんて考えたりする。人の趣味に対してそう思う人もいる。例えば僕の趣味であるランニングに対して「走って何が楽しいの?、なんで走ってるの?」など意味やその理由について聞いたりもする。
嫌いなものでなくても自分が触れたことのないものは、意味や理由を聞く傾向にある気がする。例えば、漫画やアニメを勧められた時に、「どこが面白い?」とそのコンテンツの特徴や面白さ、見るとどんないいことがあるのかというのを聞いてしまう。
その意味や理由が自分に適合しないときに、それを行わないという選択をするはずだ。例えば、ミステリー系のドラマなどのススメで「誰が犯人か分からないし、それが誰かを考えるのが楽しいし、伏線がいっぱい回収されてめちゃ面白いんだよ!」と言われたとしよう。その楽しさを僕は享受できないと思うと、そのドラマを見ないだろう。つまり意味だけ求めて終わってしまう。自分にその楽しさが適合してても、それに対する労力を想像し、比較して、労力が勝るとそのドラマを見ないということもあるだろう。
好きなものに意味なんて求めたりしないんだから、意味を求めることは良くないことなのかもしれない。自分の知らないものについては、とりあえずやってみるのが正義なのかもしれない。
意味を考え始めてしまった時はとりあえずやってみようと思う。
おまけ
音楽好きの友人が好きな曲について話しているときに、その友人はメロディーが良いでも、ギターが良いんだよでもなく、「お金や時間がかかっている音楽は良い」と言った(かなり昔のことなので、ニュアンスが違うかも)。僕にはこれの意味が分からず、「どこにそれを感じるのか、どうやったら分かるのか」を尋ねたが、「感覚的に」と返された。
当時は何を言ってるんだろうなぁと思っていたが、感覚的な勧め方で、相手に意味を与えないということを考えると、最高な勧め方なのではないかと思えてきた。漫画や映画を勧める時も「めちゃくちゃ面白いから」だけ伝えれば事足りるのではないだろうか。少なくとも僕にはそう勧めてほしい。
とりあえず僕はその友人が勧めていたthe1975を聴いてみようと思う。
おわり