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Episode 341 結局シンプルがベストです。

ASDである私は、基本的に形のあるものしか理解できません
それは私のASD思考の中で「どうやってこの世の中で生きていくのか」を考えた末に編み出した知恵であって、モノを受け渡すことによって感動を共有する「仕組み」を作り出したのだと思っています。

その私が、特定の形が存在しない「愛」の理解にどれだけ迷い悩んだかは…正直に言って説明できません。
そもそも、定型者が感覚的に掴んでいるであろう「愛」の形が私に見えている自信がないのです。
形のないものを形にする作業が昨日のブログで語られる「ぎこちない愛の分析」…あれほどに仰々しいものを考えたって、定型者が感覚的に掴む「愛」を理解できているとは思えないですけどね。

ハッキリ言います。
私がどうやってパートナーとの愛を確かめているかと言えば、SEXという具体的な行為です。

私は自分自身がASDだと自認してから、私なりに自分の不得手な社会性を理解しようと努力してきました。
その一方で、ASDの感覚は定型の感覚と相容れない部分があるという「はみ出していることを自分自身で容認する」ことも必要だと思うようにしたのも事実です。
マジョリティであるパートナーの感覚を極力理解しようと努力はするけれど、私自身をマジョリティの枠に押し込める努力はしない…そう言うことです。
はみ出してしまうマイノリティの部分は、暴走しないように「社会性」というピンで止めること。

物理的で具体的な行為を抜きにして、ASDの私の安心安定はありません。
ASDというマイノリティの私に必要なのは、行動に現われる具体的な形を伴った愛なのです。
だからパートナーには具体的な行動を求めます。

「察する」というものが存在することは分かっています。
特に私たちが生活する日本では、日常生活の中で「空気を読む」のが普通です。
空気が読めない私は、社会で孤立する…を繰り返してきたのです。
そこは「再生」をはじめとする処世術で何とか乗り切ってきたワケですが、私は家で…その処世術を使いたくありません。
だってそれは、私の体を使って誰かがセリフを言っているだけなのですから。

ストレートに言う。
ダイレクトに触れる。
以前にも言ったことがありますが、私たちは仕事に行く前に、玄関でハグしてキスして愛を確認します
ギクシャクして玄関に出てきてくれない日もあります
そんな日は、私は分かりやすく凹んでしまうワケですが…。

具体的に愛を形にして確認できる行為は、物理的なASD脳でもシンプルに理解できる。
性で愛を確認するというのは原始的な方法かもしれません。
ただ、これが私にとって一番安定した愛情表現であるというのも事実なのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/8/21

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