Episode 531 二種類の強情があるのです。
私はアニメが大好きなのです。
そりゃぁ…私の世代はアニメと共に成長したみたいなものですからね。
子どものころよく見た「コンバトラーV」や「マジンガーZ」のようなロボットものから「ヤッターマン」に代表される王道ナンセンスギャグもの、「ドカベン」のようなスポ根もの…その他、ありとあらゆるジャンルのアニメが制作され、それを食い入るように見ていた世代ですからね。
時代が進み、アニメは「子ども向け」のものから青年も大人も見る、「エンターテイメント」へと進化しました。
私たち世代の目線は、その進化の最前線にあったように思います。
子どもの頃に掴んだアニメを見る世代のハートを離さないように、アニメの方がカバーできる年齢層を増やしていったように感じるのです。
そんなアニメと共に成長した私ですから、アニメ作品からのインスピレーションが、かなり多くあるのですよね。
以前に私は、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」をASDに見立てて、あなたの思考を乗っ取ってしまう「ASD的な自他境界の歪さ」のお話をしたことがあります。
この話で私は、あなたのことを考えるが故に「あなたが欲しがっていると私が思うもの」が、「本当にあなたが欲しがっているもの」だと信じて疑わないようなことが起こる…と指摘したのです。
ところで…最近になって私に「ひとつの疑問」が浮かんだのです。
それは、「あなたが欲しいだろう」と私が思ったものとは、どこまで私の本心なのか…ということです。
「千と千尋の神隠し」で「カオナシ」が手から出した「あなたが欲しいだろう」と思ったものは「金」でした。
それは汚れのひどい方専用の「大湯」に来られた「お腐れ様」から千が引き抜いたヘドロに紛れ込んでいた砂金…それを番台蛙が見つけて大喜びした一部始終を「カオナシ」が見ていたワケです。
つまり、果たして「カオナシ」は番台蛙が見つけて大喜びした「金」を、本当に「良いもの」として見ていたのか…ということです。
「千と千尋の…」では、千に「金」を見せて「違う」と言われた「カオナシ」は逆上して…と話しが進みます。
これ以降に「カオナシ」が「金」を欲する描写はひとつも描かれません。
私には、「金」を良いものだと「カオナシ」が思っていたとは思えないのです。
先日私は「納得する」を飛ばして「思い込む」ことの危険性についての記事を書きました。
その一方で、本当に思っていることには周囲が引くまで一方的にしゃべり倒すことがある…という指摘もしています。
このふたつの事柄を比べてみると、ASDの当事者でも「本当に自分自身が納得して思うこと(本音)」と「状況的に正解だろうと思うこと(建前)」を理解していることに気が付きます…そして、それらを融通して出力調整することが難しいということが読み取れるのです。
改めて自閉とは何かを問えば、私はこのツイートの通りだと思うのです。
このツイート次のように続きます。
「ASDの融通の利かなさ」にぶつかった時、その原因がどこから来ているのかを考える必要があります。
融通が利かない理由が「自分の意思の暴走」なのか、社会性を隠れ蓑にした「常識の思いこみ」なのか。
それを考えることは、それを考えるように諭すのは、「私はどう思うのか、どう考えるのか」というアイデンティティ形成のカギにもなるのだろうと、私は思うのです。