Episode 351 読書が楽しくありません。
左利きの矯正の矯正を兼ねた書き方教室は、私が幼稚園に行っている頃に週一回のペースで進み、小学生になる頃には右手で文字が書けるようになっていました。
もちろん、ひらがなをキチンと発音に出来るようになり、聞いた言葉をひらがなに書き留めることも出来るようになったのです。
但し…ここに新たな問題がありました。
文字は読めても、言葉の理解ができない。
音と文字は繋がっているけれど、文字と意味が繋がっていないのです。
ディスレクシア(識字障害)の一種、「逐次読み」という現象です。
ひらがなは「音便」以外は完全な表音文字です。
読むことは可能だし、書くことも出来るのです。
でも「読む」も「書く」も作業として出来るだけで、文字に含まれる意味の解釈はその作業に含まれないのです。
当然、読書で苦労することになります。
「文字→音」までは作業として可能…ここから別の回路を作動させて「音→聞く」を発動させるわけです。
ようやくここまでたどり着いても、本に書かれている文字は指示ではないのです。
本に書かれていることを受けて、私が何かしらの行動するということはないのです。
意味が分かりません。
圧倒的なコミュニケーション能力の不足。
言葉を「指示する言語」と認識した結果、指示を受けて行動することが私にとっての正常でした。
指示以外の言葉は「私に不要なもの」としてシャットアウトした結果は「聞き分けの良い子」です。
自分のワガママは基本的に言いませんから。
指示に対して実行して、完成すれば褒められる。
姉に憧れ、本を読むことがどれほど楽しいのか想像していました。
姉から指示として受け取った「読書=楽しい」は、文字を意味のある言葉に変換するという激しく消耗する作業で、そして私の行動を律する「指示」は一切書かれていなかったのです。
ただ、親は本を開く私を褒めてくれたのです。
「本が読めるようになったんだね、偉いね。」
本を読むことは、やはり良いことのようです。
苦痛で楽しくないと感じているハズなのに、「読書とはこの苦痛に耐えることなのだ」と割り切って、無理やり姉が指示した「楽しい」と結合させるのです。
物語とは、登場人物の気持ちを描写したもの。
いろいろな描写の方法があるから作者の作風になるワケですよ。
でも、私は「心の理論」が未熟なままで、登場人物の気持ちを理解するスキルがなかったのです。
だから読書が楽しいとは、物理的に本を読む動作を楽しいということににするしかなかったワケです。
「本読むの、楽しい?」
「うん、楽しいよ!」
母親と私の「楽しい」が指し示す意味が全く違うことに、この時はまだ誰も気が付いていなかったのです。
旧ブログ アーカイブ 2019/8/31