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『ナルキッソスの涙 2』

※BL小説


 暗闇の中で抱き寄せた背中は、酷く震えているのに大迫を拒まず、しんなりと柔らかかった。熱いぐらいに感じる唇に夢中で吸い付き、合わせ目を舌先で割る。怯える舌先のとろけるような感触にのぼせ上り、「もっと」と追いかけようとしたとき、突然教室が明るくなった。
 弾かれたように福永の体を放す。ざあっと全身の血の気が引いた。
(俺は生徒に一体何を……)
「……終わったら、電気を消して。気をつけて帰れよ」
 咄嗟に教師の仮面を付けて、そんなことを言ってその場を逃げ出した自分を、我ながら卑怯だと思った。

 大変なことをしてしまったという後悔で、大迫はしばらくよく眠れなかった。福永が誰かに話したら、自分の教師生命は終わりだ。自分の衝動を悔やみ、綱渡りのような気分で毎日を過ごした。
 しかし、いつまで経っても福永が誰かに話した様子はなく、何事も起こらない。それどころか、福永は大迫に対して優等生らしい冷静な態度を一切変えなかった。
 福永の中であのことは、なかったことにされたらしい。そう考えても良さそうだとついに緊張を解いたのが、昨年末のことだ。
 考えてみれば、それもそうだろう。男子高校生が、十歳以上年上の男の担任にキスされただなんて、誰にも言いいたくないことに違いない。
 自分を脅かす心配がなくなったことを、もっとありがたがらねばならないはずなのに、大迫の胸を走った失望はいったい何だったのか。

 あれから五ヶ月が経っても、大迫は自問自答を繰り返すことを止められずにいた。
 あの時停電が終わらなかったら、自分はどうしていただろう。そうしたら、福永は自分を拒んだだろうか? それとも……。
 大迫は頭を振って、PC画面を睨んだ。しばらく入力作業を続け、今日の分と決めていたタスクを全部終わらせた。
 小さな達成感と疲労を覚えながら、椅子の上で背中を伸ばし、ふと思いついて水仙の花言葉を検索してみる。

    『水仙の花言葉――うぬぼれ、自己愛、エゴイズム』

 ギリシャ神話のナルキッソスの伝説は、大迫も知っていた。復讐の女神の呪いを受けて、水に映る自分の姿に恋い焦がれ、ついに死んでしまった美少年の骸が美しい花になった、それが水仙だという。
 この花言葉を調べたのは二度目だ。最初に福永が水仙を持ってきた日の夜、調べた。ネガティブな言葉が自分のことを糾弾しているようで、すぐにPCの電源を落としたことを憶えている。

 そう言えば、二月のある日の放課後、校庭を見下ろしていた福永を見つけたことがあった。顧問をつとめる部活の最中に、校舎を見上げてそれに気づいた。
 大迫は、部員たちに練習を続けるよう言いおいて、教室へと向かった。
 福永と個人的に接触するのは絶対に避けるべきだと、頭では承知している。なのに気づいた時には炙られるような焦燥に駆り立てられて、教室に向かう大階段を一段抜かしで駆け上がっていた。
 教室に着くと、校庭から見上げた通り、福永は窓際に立っていた。傍らには水仙をいけた花瓶がある。少し項垂れた長い首、すらりと伸びた手足に細い背中。いかにも水仙の花に似つかわしい姿だ。
 福永に、己だけを愛して決して他者を愛そうとしなかった神話の少年のイメージが二重写しになる。
「放課後に一人でどうした。誰かと待ち合わせか?」
「いえ、別に何も」
 表情に乏しい静かな白い顔を見ていると、何故か非常に苛立つ。あれ程福永が誰かに話したらと思い悩んでいたくせに、反応がなければないで我慢がならない自分は、何と勝手なのかと思う。
「福永は、毎週どうして水仙を持ってくるんだ」
「庭にたくさん咲いているので」
 そんな理由か。こちらをこんなに悩ませておいて。静かすぎる声と表情の変わらない整った顔が、その瞬間酷く憎らしく思えた。
「ネメシスの呪いを受けないようにな」
 そう言い捨てて教室を離れた自分は、福永をどうしたかったのか。福永に何を言わせたかったのか――。


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