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『ナルキッソスの涙 1』

※BL小説


【スイセン】
 花言葉:「うぬぼれ」「自己愛」
 ≪黄≫「もう一度愛してほしい」「私のもとへ帰って」




 大迫 敏一(おおさこ としかず)が教室に入ると、蜂の旋回のような喧噪が小さくなり、やがて静まった。
 月曜日の朝のこの瞬間は、何度担任を経験しても微かな緊張を覚える。生徒達の自分に向ける眠たげな顔を見ているうちに、次第に落ち着いてくるのもいつものことだ。
「起立」
 日直が号令をかけ、がたがたと椅子が動く。礼、着席、の声に続いて再び椅子の足をがたつかせ、生徒達が席に着いた。
 また一週間が始まる。点呼のために名簿を開きながら、大迫の目は窓際に寄せてある教師用机の上の一輪挿しを確認した。
 やはり、新しい水仙にいけ変えられている。
 二月から毎週、月曜の朝になると黄水仙が一輪いけ直されて、男ばかりのむさくるしい教室に、すらりとした清楚な花姿で彩りを添えてくれていた。
 月曜ごとに新しい水仙を持ってきてくれているのは、クラス委員の福永 聰(ふくなが そう)だ。クラスの面々を見渡す振りをしながら、大迫は秘かに福永を見た。
 福永は、優等生らしくきちんと背筋を伸ばして、いつも通りの無表情で大迫の点呼を待っている。その表情のない眼鏡をかけた白い顔を見ると、大迫の心にさざ波が立つ。
 心に寄った細かいドレープに足を取らまいと、大迫は名簿の一番上にある名前を指でたどりながら、点呼を始めた。

 国語課準備室で、大迫はインスタントコーヒーを飲みながら、PCを立ち上げた。空き時間の間に期末テストの結果を入力し終えてしまいたい。三学期も残すところあと二週間。通知票の成績決めが遅れていた。
(まあ、あいつの成績は決まっているけどな)
 大迫は、朝見たときの福永の顔を思い描いた。
 学年一、二位を争う成績で、特に国語の成績がずば抜けている。二年に上がったばかりの春には、生徒会に推す声もあったが、本人が頑なに拒んで立ち消えになった。
 典型的な優等生で発言もシャープだが、目立つことが嫌いでいつも写真撮影では後ろの端に行こうとするような、そんな少年だ。しかし、望まなくとも福永は目立った。優秀さと、その容貌で。
 平凡な髪型をしてシルバーフレームのありふれた眼鏡をかけていても、福永が美少年であることに疑いの余地はなかった。眼鏡の奥の切れ長の目、長い睫。白く滑らかな頬、子供のような紅い唇。
 その年頃の未完成な美しさには、なにかしら大迫の心をかき乱すものがあった。
 あの唇に、一度だけ触れたことがある。
 学園祭前日の、秋の陽が落ちた後の出来事だった。


 大迫のクラスはシェイクスピアの「夏の夜の夢」の劇をやることになっていて、先程までは大道具係が舞台の大道具を床一面に拡げていた。
 できあがったものを体育館脇の倉庫に係みんなで運び、彼らは芝居の練習をしている他のクラスメートに合流するため、体育館へと移動していった。
 教室には、芝居の表題を墨で書いている福永と、大迫だけが残っていた。
 床に正座した少年が、集中して筆を下ろす。墨の色が鮮やかに描き出す文字の美しさを、息を詰めるような思いで大迫も見つめている。
 蛍光灯の灯った教室の様子が、暗くなった窓に映っている。筆が上がり、福永の背中の線が緊張から解き放たれて、柔らかくたわむ様子も。
「うまく書けたな」
 そう言って、床の書き初め用紙をよく見ようと屈んだとき、ふっと電気の灯りが消えた。
「先生?」
 福永が子供のような怯えた声を出した。いつも冷静なこの生徒がこんな声を出すのかというほど幼い声だ。しっかりしているようでもまだ子供だな、と思う。
「大丈夫だ。ただの停電だよ」
 夜目が効いてくると、思ったよりずっと近くにあった福永の顔が、暗闇の中で仄白く浮かび上がる。
 眼鏡の奥のいつも冷淡なまでに落ち着いた目が、怖れるような、それとも何かを秘かに期待するような、初めて見る不安な表情で見開かれるのを見たとき、大迫の中で何かが切れた。
 気付いたときには不安定な姿勢の上半身を抱き寄せ、柔らかい唇に自分のそれを重ねていた。


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