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父がモラハラ人間になるまで②

前回の続きです。今回は、父と私の成育歴の話です。



父の母(私の祖母)

 父が育ってきた環境は、何となく知っている。私は、12歳頃まで、父方の祖父母の家に預けられていたからだ。


 祖母は女学校の出身で、その時代としては珍しい方であろう、教育を受けた女性だった。
 しかし、その教育が社会で生かされることはなかった。祖母が選べた人生は、専業主婦として生きる人生だ。
 そして、専業主婦としての生活に幸せを見出す事が、祖母には難しいようだった。

 小学生の頃、祖母によく言い聞かされたのは、いい成績をとって、いい大学に行けば、いい仕事に就けて、幸せになれる。そういう話だった。

 祖母は、社会で身を立て、家庭に縛られることなく生きる人生を、理想としていた。
 小学生の頃は、祖母の言葉を信じていた。よく分からないまま、将来の夢の欄に、祖母が良いという職業を書いた。

 祖母は良い成績を取ると、よく褒めてくれた。褒められるのは、嬉しかったと思う。


 祖母は、教育的な母であると同時に、依存的で支配的な母でもあった。

 外に遊びに行こうとすると、何時に帰るのか、安全なのかという事を、何度も確認される。

 一緒に入浴すると、手ずから性器を洗われる。幼児の頃ではなく、小学校低学年くらいまで、そうされていた記憶がある。

 小学校の高学年になっても、着替えを手伝われる。ある日、たまたま祖母の手が空いてなかったので、一人で着替えたら、着替えられる事をひどく驚かれた。体育の着替えは、どうしていると思っていたのだろうか。


 父は、この人に育てられた。

 人のカバンの中身を勝手にいじってくるところ、人の物を許可なく処分するところ、頼んでいないのに必要だと思われる物を買ってくるところなど、父と祖母の行動はリンクするところが多い。

 父の依存的で支配的なところは、祖母由来なのだと思う。

父の妹(私の叔母)

 父には優秀な妹がいた。教育的な祖母の期待に大いに応え、有名中高一貫校から、推薦で有名大学に入った女性だ。ゲームのように勉強をこなしていくタイプで、学問に興味関心があるわけではないが、高学歴を得て、安定した仕事に就いた。

 父の学歴は、妹と比べると見劣りする。高校を留年し、大学は一度入ったところを中退し、別の夜間大学に入り直した上で、大学院進学のちに再び中退である。一般的に見て、なかなか複雑な経歴だと思う。

 要領よく勉強をこなし、素直に周囲の期待に応えていく妹。父はそんな妹(私の叔母)の事を「哲学がない」と評価していた。成績優秀でも、本質的な意味での学びを知らず、人生におけるミッション(使命)がないと言っていた(どうでもいいけど「ミッション」って言うの恥ずかしい気がする)。

 叔母の存在は、父にとって、自分の立場を脅かすものだったのだろう。叔母をけなす事で、自分の方が優れていると、父は暗に主張していた。


 私の学校の成績がいいと、父は不機嫌になった。絵や習字で賞を取ることもあまり喜ばなかった。
 その感情の機微に、叔母が関係しているだろう事に、私は10代前半あたりで気づき始めたのだった。

 叔母のような女性が、父は嫌いだ。父に嫌われるのが怖いから、叔母を見習う事は出来なかった。

祖母との生活の終わり

 子どもの頃は知らなかったが、祖母は、父と叔母が社会人になる頃に、うつ病を発症したらしい。教育熱心な母親が、依存対象である子どもの手が離れて、やりがいを見失い、うつになったという流れだろうと思う。

 祖母がうつになった後、私が生まれ、幼い私の世話を任せたところ、元気を取り戻し、うつが治ったと周囲は思ったらしい。

 しかし、私が中学生になる頃、祖母はまた、うつになった。

 祖母の補助なしで、私が一人で着替えられることに、祖母がひどく驚いた時からだろうか。おそらく祖母は、子どもがまた自分の手から離れていく事を、憂うつに感じた。

 うつになった事で、祖母の様子は、目に見えて、おかしくなった。元々あった心配性な気質が強くなり、何度も、中身のない「大丈夫?」という確認を、繰り返すようになった。

 そんな祖母に私はイライラした。
 祖母がうつだという事は分からなかった。うつが、どういう病気なのかも知らなかった。

 ただひたすらに、様子の変わった祖母に戸惑ったし、ストレスを感じた。「大丈夫って言ってるでしょ!」と、祖母に対して、怒りをあらわにした時もあった。

 やがて、祖父母の家に行くことを禁じられた。私の存在が、祖母の精神状態に悪影響だとされたのだろう。


 祖母が元々うつ病であった事を知ったのは、祖父母の家に行けなくなってからだった。

 祖母を責める気はなかったが、周辺の大人たちに対しては、都合がいいからと赤ん坊の私を祖母にあてがって、成長したら、もういらないから行くなとは、随分と勝手だなと思った。

 共働きの両親が、共働きであるために、祖母の力が必要だったのは事実だ。赤ん坊の私をあてがったら、祖母が元気になったのも本当なのだろう。

 しかし、大人たちのご都合に振り回される子どもの立場は、誰も考えてはくれなかった。

両親との生活の始まり

 祖母から離れたことで、私が従うべき規範が、祖母から父のものになった。
 祖母のもとにいたときは、叔母のように成績優秀であれば良かったが、父との生活はそうはいかなかった。

 祖母から離れ、中学生になった頃、始めは、祖母の教えを守ろうとしていた。いい成績をとって、いい学校に行って、いい職業に就く。叔母のような人生を目指していたと思う。


 しかし、夜に勉強していると、「早く寝なさい」と言われ、父に部屋の電気を消された。
 定期試験の学年順位が3位だったが、結果を父に見せると、鼻で笑われた。母は、無関心であった。
 祖母だったら、手放しで褒めるような事だったので、意味が分からなかった。


 両親との生活は、外食が頻繁にあった。
 父は、母がキッチンに立ち、周辺を汚す事が嫌だったので、母に料理を禁じたが、父自身が料理をする訳ではなかったのだ。

 外食の時間は、父の話を聞く時間だ。良い成績を取るよりも、父の話をよく聞き、承認してあげた方が、父の関心を引けた。
 そして、父の関心を引く事が、必要な事だと思い込んだ。モラハラ被害に合う、母のようになりたくなかったからだ。

 同時に、祖母が私に向けていた愛情の代わりを求めていたかもしれない。祖父母の家から排除された時、父は私にとって関心を得やすい相手だった。

 高校生になる頃には、外食をする日が、週の半分ほどになっていた。
 母はこの頃、午後から夜にかけての仕事が多く、夕食の席には来なくなっていた。

 父は、外食で私に食べさせる事で、親としての責務を果たしているつもりだったのだろう。

外食生活

 外食によって、夜に2時間ほど拘束されるため、その間、勉強はできない。私が優秀であれば、隙間時間を利用し、勉強する事は可能だったのだろうが、そうするだけのエネルギーも、モチベーションもなかった。

 父に付き合うのは、とても疲れる。父の一方的で、冗長で、複雑な話を、小料理屋のような他人の目がある外食の席で、聞かなければいけなかった。

 父の話は、職場の新人の言動が理解できないだとか、父がいかに使命感をもって仕事をしているかとか、そういう話だ。中には、部下の女性の胸の大きさが、つけてくるブラジャーによって日ごとに違っているなどというものもあった。娘にするような話ではない。
 父の話を聞くのは苦痛だった。

 油断をして、自分の話を父にしようものなら、おおよそ否定的な言葉を受ける事になるので、自分の話は聞いてもらえない。

 父との生活は気を使うものだったので、私はいつも疲れていた。


 勉強は、それでもした方が良かったのだと思う。その方が、父の関心を引くよりも、よほど有益だっただろう。
 だが、できなかった。日々の生活で手一杯な中で、親に邪魔をされてまで、勉強をするほどの内発的動機は、残念ながら持てなかった。


 小料理屋のいなり寿司が、甘くなかったのをよく覚えている。
 私は甘い味付けのいなり寿司が好きなのだ。それなのに甘くなくてショックだった。小料理屋は酒と料理を楽しむ店だ。おそらく、日本酒に合うように、いなり寿司が甘くなかった。

 小料理屋は、当然のことながら、未成年に向けた店ではない。客の年齢層は全体的に高く、子どもが行くような場所ではない。いなり寿司の味付けが甘くなかったように、そこは私に向けられた場所ではなかった。

 そのような席で、公共の場で、口さがない父の話を聞かなくてはいけなかった。聞かないといけないと思っていた。
 父に依拠して生きていく以外の方法を知らなかったのだ。

次回につづく

 また続いてしまいました。次回もたぶん一週間後くらいに書こうと思います。よろしくお願いします。

続きの記事できました↓(2024/07/21)。


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