「さかなのこ」は「太陽を盗んだ男」だッ! 〜主人公たちの究極の自分探し〜
僕は、やることなすこと少し人から遅れている。
いや、走るのが遅いとか、人の呼びかけに反応するのが遅いとか、人同士の揉め事に巻き込まれていることに気づかないとかそういうことではない。(もしそうだったのなら今頃僕はどんな人生を送っていたのだろうか…..?)
話題の映画とか曲とかを実際に観たり聴いたりするのが以上に遅いのだ。
それはなぜか?その理由は一つ。もうnoteで何回も何回も何回も言ってきたことだが、僕は人と好みが違うのだ。映画でもバンドでもドラマでもなんでも、「自分を構成する物」が分かりきっているから、わざわざ新しいものに触れたりすることが少ないんだな。
だから、今頃映画「さかなのこ」を観てたりする。
このさかなクンの半自伝的な内容になっていると噂の映画は何年の作品なんぢゃらほい?と調べてみると、2022年の作品だと。
2022年にオレが観た映画……なんだっけな?あんまり思い出せないや。う〜ん、「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」は観た気がするな……。「ガメラ対大魔獣ジャイガー」も…..ってガメラガチ勢か。
正直な事を言うと、「さかなのこ」に僕は何か期待してたとかそーゆーワケじゃなくって、成り行きでなんとなく観ちゃっただけなのだ。もっと本当の事を言っちゃうと、NHKでの放送を家族が録画しており、それを観るっていうんで付き添い的な感じで観てやっただけだ。
でも、期待以上に良かった。面白かった。独特のテンポ感と雰囲気。良いです。
この映画を観て、僕はちょっと感想まで抱いてしまった。オレもこんなだっった…….いやいやそうぢゃない。いやそうなんだけど、今は別。
それはズバリ、『これは「太陽を盗んだ男」だッ!』である。
あああッ、呆れて読むのを止めないでよッ!
そう思ったのには理由があるんだよ。
そもそも「太陽を盗んだ男」を知らない人のために説明しておこう。
「太陽を盗んだ男」は、1979年に元タイガースのジュリーこと沢田研二がロン毛で主演した映画で、沢田演ずる若い理科教師が、世の中に何か不満を感じており、そのエネルギーと知識を駆使し原爆を作るけど、原爆の力を盾にしてでもやりたいことが見つからない……っていう間抜けだけど共感できるあらすじに、アクションや人間ドラマ、恋愛劇を盛り込んだ70年代日本映画最後の傑作だ。
僕が最初に「さかなのこ」で「太陽を盗んだ男」を感じたのは、のん演ずるミー坊がクラブでぼへーっとしてるシーンだ。
このシーンの、なんか人生上手く言ってネェな〜….みたいな表情が、「太陽を盗んだ男」での、ロン毛で原爆の制作者なのに、何もやりたいことが無くぼへーっとしてるだけのジュリーと重なってしまったのだ。
それに、このシーンでのミー坊は、魚関係の仕事で働くことを目指して色々やってみるけど全然うまくいかない…..それはなんでだ?みたいな感情を持っていて、それが「太陽を盗んだ男」での世の中に不満を感じるし何かが自分の人生に足りないような気がする……それはなんでだ?みたいな感情を終始抱いていたジュリーの理科教師の感情と似ていると思う。
それに、「太陽を盗んだ男」は、原爆を作りたいという願望は達成したけど、その後何をしたいかが分からないから、それを探す。というストーリーだったように、「さかなのこ」の中盤は、魚の仕事で生きていきたいという願望はあるけど、どんな仕事をやっても自分に合わないから、自分に合う仕事を探す。というストーリーで、なんだか共通点がありそうではないか。
僕が思うに、この2つのストーリーの共通点は、どちらも「究極の自分探し」のストーリーである。という点だ。
だって、そうじゃん。ジュリーは原爆を使ってやりたいことを探すし、ミー坊は自分に合う魚の仕事を探す。これはどっちも結局は、「やりたいこと探し」であり、原爆を使ってぐらいやりたいことなら、それはきっと自分を構成する事であろう。例えば、僕の中で自分を構成するのは、筋肉少女帯、ザフォーク・クルセダーズ、たま、昭和特撮、手塚治虫のマンガ……..などだ。ってそれ、原爆いらないですね。そして、仕事というのは、良くも悪くも自分を構成するものだ。
だから、これらを探す2つの映画の主人公は、結局自分探しをしている。それに、原爆というスケール感、さかなクンという人物のスケール感から見ても、これはタダの自分探しではない。「究極の自分探し」だアァァッ!で、究極の自分探しってなんだよ。それは僕も分からない。
だが、このよく似た二人が歩んだ道は、全く似ていないものだった。
ジュリーの方は、原爆を駆使してとりあえず見つけた叶えたいと思っていた事を全て叶えたと思ったら、菅原文太演じる刑事についに原爆制作の犯人だと気づかれてしまい、恋人も死に、刑事に「一緒に闘おうぜ」(おそらく体制や、この世と)と共闘を申し込むも、断られ、格闘の末に刑事は死に、残るのは核に侵された自分の体と原爆だけで、街をただ歩く……というなんともいえないラストで終わる。
一方ミー坊は、色々上手くいかない人生だったが過去の友人たちとの再開を機に自分に合う仕事を得ることが出来、「ミー坊」の名でテレビに出演するまでに至り、人気者になって、海辺の町で小学生たちと走り回って幸せに終わる。
なんで同じような境遇なのにこう真逆の人生を送っちゃうんだろう?
それは、やはり、人間性の違い、立場の違いが影響しているのだろう。ミー坊は、仕事が見つからなくとも、「魚が好き」という信念だけはずっと貫いており、それが自分の芯となっていたことで、いかなる時も精神が完全に不安定になることは無かった。
だがジュリーの理科教師は、教師という堅い職業に一応就いていながらも、自分のやりたいことが見つからず、それ故に若さのエネルギーを爆発させられないという因果な立場。その結果、完全に自分という物が不安定になってしまい、結果、全てを失ってしまう。
結局、好きな物はいかなる時でも自分を救うという事だったのか。
だが、ジュリーも原爆を心から愛していたような描写があったぞ。それは一体なんなんだ?やはりそこは作品の世界観の違いでしかないのか?
なんて思っていたら思い出した!いた!「さかなのこ」の中にも「太陽を盗んだ男」と同じような人生を送った者が。
それは、ミー坊の子供時代に登場する、「ギョギョおじさん」だ。
彼は、子供達から恐れられている変質者で、ハコフグの帽子をかぶっている。
だが、その正体は単なる魚好きのおじさんで、魚博士になろうとするも就職に失敗、現在は無職だという。だが、そんな状態でも「魚が好き」という信念は曲げなかった。
彼は、子供時代のミー坊と出会い、心を通わせ、自分の家で魚を眺めたり絵を描いたりしていた。
だが、そんなことをしていたせいで気づけばもう夜中!ギョギョおじさんは誘拐犯として詰め寄られてしまう………..。
ありますよね〜。熱中しすぎて時間を忘れちゃうこと。僕も、この記事を書いた時間は20分ぐらいだと思っていたのですが、時計を見たら、一時間経ってました。
そんな話はさておき、このギョギョおじさんは、中々「太陽を盗んだ男」的存在だ。なんせ、誘拐犯として詰め寄られた後、警察に連れられて物語から消えてしまうのだから。その時に被っていたハコフグの帽子をミー坊にたくすが、ミー坊が高校生になる頃には、彼の家には誰も住まなくなり、ボロボロの空き家となってしまっていた……..。
やはりあるのだ。好きな物に熱中していても、全てを失ってしまうことが。それをサラリと描いている点、やはり「さかなのこ」は「太陽を盗んだ男」であろう!そして、この2つの映画、タッチは違えとどっちも超面白い。
それに、このミー坊の子供時代のパート、観てるとなんか胸に来る物がある。ギョギョおじさんの可哀想な末路もそうだが、子供ミー坊を見てると、やっぱり「オレもあんなだった……..」って思ってしまう。オレも好きな物に熱中して、勉強を放り投げ、周りに迷惑をかける子供時代だった。
それでも、こうやって好きなことで生きてるさかなクンは凄いや。全てを失う可能性だってあったのに。
一方、オレは一体何をやってるんだ?オイ!オレは一体何をこれからすればいいんだ?オイ!