見出し画像

【孤独】で【ふつうじゃない私】:学校には誰一人として私を守ってくれる人はいなかった :その2

こんにちは。ほしまるです。

私は、とても生きづらい世界に住んでいる

いつからか、そう思って生きてきました。

そんな 私の 体験記 その2、前回からの続きです、

その1はこちらです。


今回の投稿は私自身が中高一貫の私立女子校で 壮絶ないじめのターゲットとなり、数年間苦しんだ経験を書きます。
ですので、もし、過去にいじめを受けたことでトラウマに今でも苦しんだり、辛い生活を送られている方にとっては、辛い思い出を思い出す恐れもあり得ます。
どうか、それをご承知の上で、お読みになるかこのページを離れるか、ご判断いただいた上で、お読みいただきますと幸いです。

☆☆☆

Mちゃんが学校を去ったあと。

校長を筆頭に教師たちも、生徒たちも誰しもが、みんなMちゃんの存在などなかったかのような日常を過ごす様子は異様でしかありませんでした。

Mちゃんなんて、退学はおろか、入学もしていなかった。まるでそんな催眠術でもかけられているかの光景に私は、言葉にし難い感情を抱くようになります。

こうして人は 忘れられたり、排除されていくこともあるんだ、と。

それはまさに

同調圧力による犠牲

であり、

中学一年生の私には重すぎる現実でした。

それから間もなくして、私自身もいじめのターゲットとなること、教師たちからは厄介な生徒だと疎まれることも、心のどこかでは覚悟できていました。

とうとう私に向けられたいじめが始まった日のことはよく覚えています。

中学二年の春でした。

お昼休みに、いつも通り、仲良しグループと机を並べてお昼ご飯を食べる。

誰かが話していて、その話に反応しているグループの子たちの様子が明らかにおかしい。

みんな笑っていて、私も笑うといきなり笑うのを止めたり。

私が話始めたとたんに、あからさまに目配せをしたり、口だけを動かして 私にだけ見えないサイン、コミュニケーションを送りあっているような空気。

あ、これって私を仲間から外そうとしてる?

でも、気のせいだったらいいのにな

そう思い、わざとあることを思い出したふりをして、中学一年の時から同じクラスだった グループの仲間、Iちゃんに肩をとんとん、としながらこう尋ねました。

「次の授業の美術って、今日は絵の具、要るんだっけ?」

その瞬間、Iちゃんはキッと目を見開き、まるで汚いものでも見ているかのような表情で、私に触れられた肩を払いながら、こう言いました。

「話しかけるんじゃねぇよ、触るなんてキモい。」

私は頭が真っ白になりました。
気づけばグループの仲間たちはお昼を済ませ、飲み物を買いに教室から出ていました。

その様子はスローモーションというか、とてもゆるやかな動きに見えて、それ故に私の目にも脳裏にもくっきりと焼き付きました。

え、これは夢?想像?

間もなく、クラスの周りの子達が一人、また一人と私を見て笑いだして、

バカじゃないの?
ウケるー!

などと言いながら遠巻きに私をからかっていることで、現実なんだとわかりました。

その後の授業は、全く頭に入らなかった。

何が原因なんだろう、なんでこの子たち、そしてクラスの子までもが。

その日は、部活に参加する気分になれず、部活を休んで家に帰りました。

仕事から帰宅した母と同じタイミングで、
なんとか悟られまいと、作り笑顔をするも失敗。

どうした?

温かい紅茶を入れてくれた母にポツリ、ポツリと今日起こったことを話ました。

母とは何でも話していたので、勿論、母はMちゃんの退学の経緯も知っていましたし、Mちゃんの退学後、何もなかったかのような周りに違和感を感じたことも母には話していました。

母はこう言いました。

「いじめだとして、貴女に心当たりはあるの?」
「...ない。だから、悩んでるんだよ。」

そうか。とため息をつきながら母はこう言いました。

「聞いてみればいいじゃない。本人に、正々堂々と。」

これは後に母から聞いたことですが。
母はこの時、私にこう言ったことを間もなく後悔したそうです。

まさか、このいじめが私をどん底に突き落とすほど苦しめるものとは思わず、若い少女同士のちょっとしたいざこざに過ぎないと思っていただけに。

そんなことにめげないで強くなりなさい、という意味合いを私がもっと強く受け止め過ぎていたことにも、母は自身で罪悪感を抱き、責任を感じていたとも聞いています。

「...わかった。」

気は進まなかったけれども、私はグループの一人一人に電話しました。

ところが、みんな今日のことはなかったかのように電話では明るいのです。

「えー!ほしまるの勘違いだよぉ!」
「明日もまたよろしくねぇ♪」

などなど。

よくよく考えれば当たり前。
当時はスマホもガラケーもない時代で、電話は一家に一台。
子機で話そうが、家族に聞かれるのを恐れて本音を隠して明るく話していました。

翌日、登校すると昨夜電話したグループの全員に囲まれました。

「家に電話してくるなんてどういうつもりだよ」
「ふつうはさ、無視されてることくらい気付くよね?」
「余計頭にきた」
「本当にうざい、キモい。」

やっぱり、そうか。
そうなんだ。

理由も、どうしていじめられなきゃいけないのかわからないまま、

私へのいじめはそうして始まっていき、クラスでも、部活の同期でも、傍観者というギャラリーに見物されながら、私へのいじめはエスカレートしていきました。

ほしまると話したり、ほしまるに味方した奴は同罪。

言葉で攻撃されるのは日常茶飯事。

授業を聞いていても、教師に叱られないよう、後ろから目立たない形で物を投げられたり。

教科書や文房具、ジャージや上履き、運動靴など、持ち物を汚されて、それを親に心配かけないように汚れを落とすことも辛かったですし

気を抜いたら大怪我になりかねない形で、あれこれわざと怪我をさせようとしたり、身体を攻撃されることも耐え難かった。

無駄なことだと知りつつも、何度も、何度も声をあげました。

助けて

何でこんなことするの?

どうしてみんな笑って見てるだけなの?

お願いだからもうやめて!

数年間。衝撃な言葉の数々を聞いてきました。

「学年トップでいられて誇らしい?ふざけるな、お前なんかトップから引きずり落としてやる」

「先輩にも先生にも偉そうに自分の意見言ってて、勘違い甚だしいよ」

「こうしてあんたをいじめると面白いんだもんね」

「そうそう。それに、あんたをいじめてれば私達はみーんな仲間。ひとりになるのはあんただけ。」

極めつけはこうでした。

「Mちゃんの味方して、バカみたい。

あの子、学校辞めたのは、精神病になったからなんでしょ?あんたも精神病んでみりゃいいのにね!」

ストレートに言われたこともありました。

「お前なんか、しねばいいのに。」

身体を傷つけられても、持ち物を傷つけられても、汚されても、どんなに辛くても耐えました。

この世の中、きっと大人になっても、こうしたいじめはあるかもしれない。

結局、誰かをターゲットにして、罵詈雑言を浴びせたり、攻撃することでストレスを発散させてるんだ。

私がここで逃げ出したら、また誰かがターゲットになるだけなんだ。

いじめの連鎖はもう沢山。

そう思ってきたからです。

けれども。

何よりも耐えられなかったことは

私に味方してくれる人、守ってくれる人、が学校にはひとりもいなかったこと。

教師ですら、見てみぬふりをしていたことでした。

傍観者

すなわち

見物人たち

それこそが私の最大の敵だったのかもしれません。

幾度か、両親から提案されたことがありました。

「よその学校に転校(編入)してもいいんだよ」

「頑張ってるのはもうわかったから。でも、もう部活は辞めよう、ね?」

そうすることが一番なのは私自身もよくわかっていました。

でも、なぜか、バカみたいに意地を張って我慢していました。

そんな過酷な状況に身を置き続けることは今後、なにかのためにもならないし、価値もないことはわかっていたけれど。

誰のためでもなく、私自身がひとりで抗い、闘い続けることを選びました。

傍観者、見物人という、無責任な敵に対して。

孤独でした。

でも、私が悪くないのに、長いものに巻かれるべき!と、屈することはしたくなかった。

理由を無理やりこじつけて後付けして、私をいじめることでストレスを発散してる子たちを見ていたら、哀れなのは私でないと確信していました。

そして、やはり私にとっては

Mちゃんのようにまた退学するほどの被害者を出したくなかった。

綺麗事に聞こえるかもですが

私なら逃げも隠れもしないから、私だけをいじめていればいい、と思ったのです。

そんな私は、自分自身でも馬鹿げてると思ったことも沢山ありました。

けれども時を重ねるにつれ、一人、また一人と私のところに歩みよってくる生徒がいました。

もう、いじめる側で見ているのは辛くなった、

とか

ごめんなさい、側にいることしかできないけど。

などと

お昼休みに私の元に寄ってきたり

私のところに勉強でわからないところを聞きに来たり

少しずつ、ではありましたが勇気を出して踏み出してくれた生徒もいました。

高校一年の終わり頃だったでしょうか、

私への執拗ないじめは、気づけば自然となくなっていました。

当たり前の話ですが、

いじめていた側も、自分たちの進路だとか、それどころではなくなってきたわけです。

謝ってきたことで終わったわけでもなく。

だから、私も、心から許して一件落着、という流れではありませんでしたが。

憎しみは何もならない。許そう(赦そう)、と思いました。

その後、高校二年生になり、二年生、三年生は担任も生徒も同じクラスのままの二年間となり、そこで私も後れ馳せながら本格的に受験生の仲間入りをしつつ、翌年の引退まではなんとか部活も続けました。

そして、高校二年で出会った親友とはそのご今に至るまで唯一の昔からの友、となりますが、その話はいずれまたどこかで。

☆☆☆

数年間に渡ったいじめでの孤独な私の悪あがき、ひとりで闘い続ける様は、さぞ滑稽だったかもしれません。

孤独なんかじゃない。

孤高、であればいい。

ある時から私はそう意識していました。

よそ者、あるいは エイリアンらしく。

だって、この学校にきちんと合格して入学した、【パスポート】を持った人間なのだから。

この意識は、そう、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが。

私が尊敬してやまない、元ポリスのフロントマン、ベーシストである、Sting(スティング)の Englishman In NewYorkの歌詞に影響を受けたものです。

画像1

I'm an alien I'm a legal alien
僕はよそ者なんだ、法の上では認められているよそ者なんだ
I'm an Englishman in NewYork.
僕はニューヨークの英国人さ
Be yourself, no matter what they say.
誰が何と言おうと、自分らしくあれ。
Modesty, propiety can lead to notoriety
謙虚さ、礼儀正しさは悪評を招くかもしれないが
You can end up as the only one
君は唯一無二の存在として一生を終えられるんだ
Gentleness, sobriety are rare in this society.
優しさや真面目さはこの社会では稀なのかもしれないけれど
At night a candle's blighter than the sun.
夜になれば、ろうそくの灯だって太陽よりも明るいんだよ

1987年にリリースされた2作目のアルバム
Nothing Like The Sunに収録されていた このシングル。

歌詞を読めば、そしてミュージックビデオを見れば、ニューヨークで暮らす英国人、スティングそのものの体験記のように思えますが。

この曲で描かれている英国人とは、実際にミュージックビデオにも登場し、
まだ同性愛というものへの偏見、差別が絶えなかった時代に自身がゲイだと公表した 英国人作家クエンティン・クリスプがアメリカへ渡った時のことを表現した曲だとされています。

画像2

ミュージックビデオも、とても印象的なんですよね。


幼稚園、小学校、そして中高でのいじめ、というものを経験してきた私は、
やはり人と深く関わることに対して臆病です。
人と関わることは素晴らしいこと。でもやはり怖い。

どんなに慕ってきても、嘘だったかのように手のひらを返す人もいる。

高校卒業後、仲間に囲まれ、沢山の友人ができ、青春をそれなりに謳歌してきた私ですが
やはり心のどこかでは、
「いつか私のことを裏切る人間が必ずいる」と思ってしまいます。

実際、社会人になってからも、親友だと思っていたともだちから酷い裏切りの仕打ちを受けたこともありました。

「ほしまるは優しすぎるんだよ」
「ふつうは、そんなに他人のことまで考えていられないよ、優しすぎるんだよ」

優しすぎる?それもふつうじゃないんだ?

どうやら、私が

ふつうじゃない

ことで悩み、苦しむのはまだまだ続きがあるようです。

というのも、未だに

私はよそ者

エイリアン

なのですから。

☆☆☆

今回も長い記事にお付き合いくださいましてありがとうございました。

どんな形でも、生きづらい、と感じる方へ

私はまた綴りますね。

この記事を気に入っていただけたら、サポートしていただけると、とても嬉しく思います。 サポートしていただいたお金は、書くことへの勉強や、書籍代金に充てたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。