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徳川家康さま☘️をたどる#29☘️三方原その2

初筆 2023年 4月 7日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#29
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

遠江を制圧した家康さま1569年ごろから頻繁に
文書を朱印状とし「福徳印判」を使用したのは
遠江支配は徳川家であるというのを
内外にアピールするため

そんな最中、同盟決裂した武田信玄さまは
遠江を北側から切り取ってから浜松付近を
スルーし西へ❗️
家康さまは籠城ではなく打って出ました。
それは、遠江国衆の気持ちや戦後処理のこと
あるいは、そもそも勝つつもりであった、
いやいや織田徳川連合の作戦行動であった
などの理由が考えられるが、家臣団への
説明はちょー下手くそ😂

前回記事はこちら
⬇️


3 三方原の戦、メイン会場😂の様子

三河物語を基本として三方原の戦
戦闘の様子を話していきます。

共通認識として

  • 三方原は台地

  • そこから西に向かうと祝田という土地がある

  • 三方原から祝田へ向かう道は下り坂

敵の大半が祝田へ下ったくらいで攻撃を仕掛けたら
たやすく勝てたのかも、と三河物語に。
武田軍は3万余騎、対する徳川軍は織田援軍も
合わせて8千。その差を埋めるためには
台地という上から坂の下に攻撃するのが
得策と家康さま、お考えになったのでしょう。

しかし、はやって早く戦を仕掛けてしまった、
信玄は合戦慣れしていて、陣形をすぐさま
整え徳川軍を迎え打つ、徳川軍は信玄本隊まで
殺到し粉骨砕身せりあったが
数で勝る信玄本隊に攻め返されて敗退
と三河物語にあります。

その後、徳川軍の敗走、
浜松城への帰還が始まるのです。
つまり家康さまボロ負け💦💦💦

4 家康さまの敗因

家康さまの敗因=信玄さまの勝因について話します。

そもそも兵の動員数に差があり、
それが敗因と言えは敗因。

家康さまの戦略は三河物語に書かれている通り
坂を下る敵を背後から襲撃する、でした。
が、TVドラマや小説などでは
信玄さまが三方ヶ原から祝田への坂を下るフリをして
三方原で万全の陣形を組んで家康さまの軍を待ち伏せ
していた、という描き方をされることが多いです。

  • 信玄さまの浜松スルーはフリだった

  • 信玄さまは家康さまを三方ヶ原に誘き出すつもりであった

  • 信玄さまの策にまんまとはまった家康さま、三方原に到着したらいきなり信玄さまの軍勢が襲いかかってきてドびっくり❗️💦

  • 家康さま陣を整えるもいろいろ後手に回り不利になる

が、三方ヶ原の戦の始まったときの状態、と
一般的には考えられてますが、三河物語には

  • 家康さまの勇み足、つまり、信玄さまが軍を台地から下り坂に入りきったとこを、家康さま打とうととして、出撃が早すぎた

  • 徳川軍は三方原に到着したとき武田軍はまだ三方原にいた。

  • 信玄さまは合戦慣れしてるのでl、すぐさま陣形を整え、出遅れることはなかった

という内容だけが記されています。
三河物語は一次史料ではありますが
徳川家重臣の一族が記した史料ゆえ、家康さまに
苦言を申し上げる表現は出てきますが、
家康さまがウカツだった、みたいな表現はされないのでしょう。

家康さまが策略にはまったのか(一般的にはこの説)
単純に時間を読み間違えて自爆したのかはわかりませんが、
以下のことは確実に言えることかと思われます❗️

  • 諜報活動は信玄さまのほうが上

  • 合戦経験も信玄さまのほうが一枚上

  • 家康さま、合戦経験が信玄さまより少なくバックアップ案がない

  • 軍の規律も武田軍が一枚上

ちなみに家康さまこのずっとあとに
諸事情により軍の編成を全面的に作り直す必要に
迫られたとき、武田軍の編成を手本にしたとのこと。
このことからも、家康さまは信玄さまに一目置いていた
ことがわかるかと思います。
つまり、いちおー経験的に自分は
信玄公に負けている、ということ、
家康さま、自覚はしていたんですね😂💦

5 エピソード


三方原の戦でのエピソードいくつかお話します。

  • 敗走確定時、家康さまお小姓たちを助けるため、馬をあちこち走らせて、浜松城に帰らせた。

  • 家康さま戦死の噂話は、浜松城ばかりか、岡崎城まで逃げ帰った者だちが誤報をした。

  • 織田家から派遣の水野信元さまは三河方向へ敗走

  • 敗走時に家康さまが脱糞した(もらした)、また戒めとしてその様子を絵に描かせたという逸話はよく聞くが出典はない。その絵も後世の作品という話もある。

  • 家康さまの甲冑を剥ぎ取り影武者として、家康さまが逃げる時間を稼いだのは、夏目広次さまという逸話を聞くが、三河物語にその経緯掲載はない、戦死記録のみ掲載

6 武田軍の浜松城への追撃の撃退

撃退ではないんですわ😂💦

家康さまはとにもかくにもほうほうのテイで
浜松城にかろうじて逃げ帰ります。
また、敗走した徳川軍の兵たちも
一騎また一騎とばらばらに浜松城に帰還します。
逃げ帰ってくる兵がいるのですから
浜松城の城門は開け放たれています。

立て直しがスグにできないであろう
徳川軍・浜松城を武田軍が追撃しないわけがない。
山県昌景さまの軍が浜松城へやってきます。

そのとき家康さまは疲れ切って爆睡状態😂💦💦💦
活躍したのは、徳川四天王筆頭:酒井忠次さま❗️
といっても城から打って出たわけではありません。

「篝火を炊けーーーーーーーっ」
ということで煌々と灯りをつけ
門は開けっぱなしのままにしました。

え❓
そんなんしたら兵も少なく
疲れもピークの徳川軍、全滅するやん❓
って❓❓

これ、空城計といい、中国の兵法書のひとつ
兵法三十六計うち第三十二計です。
追撃してきた軍の武将が賢いと
ひっっかかってくれる心理戦の一種
つまり、開門してて煌々と篝火が燃えていると
「何か策略があるのではないか」
「深追いはやめよう」
と追撃・落城を諦める、いや、少なくとも
様子は見てみる。そうさせる作戦です。
武田軍は浜松城内の様子まではわかりませんから。

山県昌景さん案の定、危険を冒さない方針で
浜松城の様子を見ました。
追撃軍がスグ引かないのを見た酒井忠次さま
「太鼓を打てーーーーーーーっ❗️💦」
さも城内んい活気が満ち溢れていて
今スグにも隠し軍勢が打って出そうな
勢いを、太鼓を打ち鳴らすことで、追撃軍に錯覚させて
みごと、山県昌景さん軍勢は引いていったのでした。

これ
「酒井の太鼓」
という歌舞伎演目にもなってます。

またそのとき打ち鳴らした太鼓は
静岡県磐田市の小学校に寄付されていて
毎日時報を打ち鳴らしているとのこと
ほんまもんかどうかは知らんけど😂


7 次回


家臣たちのおかげで浜松城落城だけは避けられた家康さま
そしてなんと爆睡後、むくり起き上がった家康さま、
なんと武田軍に一泡吹かせる❗️と逆追撃の指示❓❗️😂
その緒戦は 犀ヶ崖の戦い ❗️

そして家康さまを負かした信玄さまは
その後、どのような西方進軍をなさったのか❓
あたりから話をスタートしたいと思いますっ❗️

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