徳川家康さま☘️をたどる#34☘️長篠の戦・後編
初筆 2023年 5月 12日 / 加筆修正 未
この記事は有料ですが、今とこは
実質最後まで無料で読めます🤗
有料部分の文章は
「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
またこの記事の前半と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#34
⬇️
https://stand.fm/episodes/64604704b2d0dfa9ce90fd7a
1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
武田勝頼さまは信玄さんに負けず優秀な武将で奥三河の長篠城に侵攻・包囲・兵糧攻めにした。
家康さまは自分自身が境界にいる国衆レベルの力であることを自覚し織田信長さまの救援を要請。
陥落限界に達していた長篠城を救ったのは、まずは鳥居強右衛門さまの勇敢かつ忠義な行動。磔にされ救援軍は来ないと長篠城に向かってウソをつけば助かるところを、救援は目と鼻の先まで来ている、と伝えて、処刑された。
限界だった長篠城はどよめき立ち、やる気マンマン、その時点で気持ち的には勝っていた😉🤚
前回記事
⬇️
3 長篠の戦・直前の布陣
1575年・天正3年 5月 21日
三河国・設楽・あるみヶ原、
長篠城の西側岡崎寄りにて長篠の戦、
本戦は始まりました❗️
しかし、その本戦は
いきなり武田軍・織田徳川連合軍が
さあ、広場いって戦しましょと
集まったわけではありません😂
合戦プランやそれに基づく前哨戦・心理戦があり
結果、その場所その日付その時間での
決戦となりました。
先週お話しした、
奥平さまのご家臣、鳥居強右衛門さんの
勇敢で忠義のある行動、
自分の死と引き換えに
長篠城に希望と活気を与えた行動は
1575年・天正3年 5月 16日のこと。
その翌々日 5月 18日には
織田軍3万、徳川軍8千の軍が
あるみヶ原(資料により設楽ヶ原とも)に到着。
まず、南北に細長い川と湿地帯に対して
南北に細長く馬防柵を設けると同時に、
大軍が敵からあまり見えないように
兵も南北にまばらに布陣させ、敵の油断を誘いました。
また、湿地帯と川を、さらに人工的に
堀になるように急斜面になるような土木工事を行い、
武田軍が突っ込んで来た時に鉄砲の一斉射撃できるような
いわゆる「野戦築城」を行いました。
これらすべて信長さまの合戦プランで
イタリアの兵法を勉強していた、という話もあります。
この地には2023年の今現在、観光用に
馬防柵などの野戦築城が再現されてます。
興味のある方は行ってみてください☺️🤚
信玄さま時代からの家臣たちは
単純な野戦なら武田軍はお手のものですが
信長さまの野戦築城の様子を見て
これは城攻めに近い戦となると考えて
撤退を進言しましたが、勝頼さまは合戦を決定。
1万2千の兵をあるみヶ原の湿地帯・川をはさんで東側、
長篠城を背にして布陣しました。
信玄さま時代からの重臣たち
山県昌景さま・馬場信春さま・内藤昌秀さまたちは
敗戦を予感し、死を覚悟して水盃)を決別したとのこと。
そして武田軍と織田徳川連合軍の間は
約20町(2km余)まで近づきました。
信長公記には
「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。
ことごとく討ち果たすべきだ、と信長さまはお考えになり
味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた」
とあります。
信長さまの戦略は敵の油断を誘うとともに、
鉄砲を主力とする守戦、そのために
武田軍を前線にまで誘い込む狙いだったんでしょう。
4 前哨戦・鳶ヶ巣山砦襲撃
5月 20日、深夜、信長さまは
徳川軍うち宿老の酒井忠次さまに
長篠城を包囲する武田軍うち鳶ヶ巣山砦を陥とすようにお命じ。
目的は、2つ、長篠城救出・武田軍の退路を断つ、でした。
信長さまにしてみると長篠城救援の目の前の目的ではなく、
武田軍に大きなダメージを与える、あわよくば、滅ぼす、
という長期的な目的をしっかりお持ちで、
そのために今回の戦では、武田軍の退路を断ち、
合戦するしかない状況を作り出し、
さらに武田軍から自分達に向かって突撃させたいところです。
鳶ヶ巣山砦攻略は信長さまが軍議を開いた際に
家康さまあるいは酒井忠次さまより、
別働隊が鳶ヶ巣山砦を陥とし武田軍を前線に追いやる
という作戦提案が、信長さまに対してあり、
公の軍議の場では、武田のスパイあるいは間者に
情報漏洩する可能性を信長さまはお考えになり、
いったんは完全否定し、のちほど信長さまの元へ
家康さま・酒井忠次さまをお呼びになり
「よき策である、実行せよ」
という流れでもよく描かれます。
織田徳川連合軍より4000名を率いた酒井忠次さまは
この作戦行動を見事に成功させ、長篠城を救出しました❗️
さすがは家臣だけは恵まれている家康さまっ❗️😂
救出された奥平軍も活気づき酒井軍と合流、
本戦布陣の後方の武田軍にも襲撃し、
武田本隊の退路を脅かすことにも成功❗️
5 長篠の戦本戦
5月 21日、早朝に長篠の戦・本戦は
火蓋を切って落とされました。
武田勢退路はかなり断たれていましたが
撃って出てもらわなくては
信長さまの「敵を引き付けて一斉射撃」作戦は
成立しません。
そんな状況の中、活躍したのは
家康さまのご家臣、大久保忠世・忠佐ご兄弟。
三河物語引用します。
「家康は
大久保七郎衛門尉(忠世さま)・同治右衛門尉(忠佐さま)の
ご兄弟を出陣させた。兄弟は敵味方のあいだに乱入し、
敵が攻め寄せるならば引き、敵退却ならば口撃する、
多数の人々を2人の采配でみごとに動かす
これをご覧になった信長さまは
『家康の軍の前方で金の揚羽蝶の羽と浅葱の石餅の指物は
誰か』と家康に問い合わせ、家康さまは
『大久保七郎衛門尉(忠世さま)・同治右衛門尉(忠佐さま)
の兄弟だ』とお答えになる」
この出て行っては敵を自陣近くまで誘い込む動きが
功を奏して、武田軍は幾度となく、大将が交代で
織田軍に攻め寄せ、織田軍の鉄砲に倒れていった、と
三河物語にあります。
また、敵は一騎ずつしか進めないような
細い道を一里半(約750m)進み押し寄せる合戦であった
ともあります。
馬防柵を立て、攻め寄せる武田軍を一斉射撃し
戦のあり方を変えたのが長篠の戦、である、
と、一般的には言われてきてますが、
その作戦を進行させるためには
待ってるだけではいけない。
長篠の戦の場合だったら
士気を高めておく
場防柵内からの射撃作戦なので敵が前に出なくてはいけない状況を作っていく
そのための別働隊の退路断ち
そのための大久保兄弟による敵の呼び込み
自然の土地を利用するだけではなく、その土地を都合のよいように加工して準備しておく
といった作戦を信長さまはお使いになり、
また連合していた家康さまの機動力のいいとこを
うまくお使いになり、作戦を成功に導いたと言えます。
武田軍は
土屋昌次さま
内藤昌豊さま
山県昌景さま
馬場信春さま
真田信綱さま
などの優秀な大将をお失いになり
やっと勝頼さまは退却するのでした。
6 長篠直後の家康さまのおことば
長篠の戦直後の三河物語の記述を引用しておきます。
「家康さまは奥平作州(貞能さま)・同九八郎(信昌さま)を
お召しになり『大切な城をよく守ってくれたことは
人々の口に登っている、その誉はたいへんなものだ』
とお声かけ。また大久保忠世・忠佐ご兄弟をお召しになり
『このたびの兵の指揮振りは立派であった、おまえたちが
指揮してくれたので戦に勝った』
家臣をお褒めになってらっしゃることが
三河物語に掲載されています。
家康さま、ご家臣を褒めることは
ちゃんとわかっていたのですねーー😂😂😂
7 次回
長篠の戦そのもので武田家が
滅亡したわけではありません。
ではこの「長篠の戦」の意義・影響には
どんなことがあるのか❓
それを受けて、当事者である
武田勝頼さま、徳川家康さま、織田信長さま
そして近隣の戦国大名はどう動くのか❓
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?