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倭の五王とは誰か (『台与を殺した神功皇后 新たなる邪馬台国仮説』抜粋)


倭の五王 参考テキスト


本項では、拙著『台与を〇した神功皇后 新たなる邪馬台国仮説』を用いて、倭の五王の比定を行います。アマチュア研究者の空想として、広い目で楽しんでいただければ幸いです。

倭の五王 歴史的背景


まずは、倭の五王のうち、倭王済、倭王興、倭王武の特定を行いたいので、朝鮮半島の情勢を確認します。
西暦475年、高句麗の侵攻を受けて百済の首都ソウルが陥落し、百済は一時消滅します。
しかし新羅に援軍要請のため出向いていた蓋鹵王(ガイロオウ)の王子文周王は難を逃れ、コマナルで百済を再興します。
ただし政治は不安定で、すぐに家臣により暗殺されます。急遽即位した子の三斤王も、同じ運命をたどります。

倭王武の上奏文


このような政治情勢のもと、倭王武の中国南朝への朝貢が、西暦478年に行われました。その目的は南朝から官爵を得て、軍事行動を正当化するためです。
このときの倭王武の上奏文が残っています。
上奏文の1つ目は倭国の歴史ですので、上奏文として妥当なものです。
問題は2つ目です。当時の倭国には、高句麗に対する強い憎悪はありません。明らかに百済人の心情を露吐したものです。
3つ目で倭王済の特定ができます。それは西暦475年の百済滅亡時に生存していて、西暦478年までに急死した人物です。

倭王済の比定


それは蓋鹵王の弟である昆支です。日本に人質として居住していた人物です。没年も上奏文と一致します

倭王武の比定



そして倭王武は、昆支王の第二王子である東城王です。上奏文の直後の479年の三斤王の急死後、大和朝廷により百済王となりました。王権と国力の回復に努めましたが、晩年は暗君になり、西暦501年に暗殺されました。

倭王武の進号


それでは、倭王武の官爵を確認します。上奏文が記録された西暦478年には、倭王武は百済の官爵を希望しましたが、叶いませんでした。
しかし、西暦479年に百済王となった後、南朝で王朝交代された際に、鎮東大将軍にランクアップしました。この官爵は、百済王が代々引き継いでいるものです。
さらに西暦502年、南朝がまた王朝交代したのに伴い、征東将軍にランクアップしました。これは、西暦501年に崩御したことを反映したものだと考えられます。

倭王興の比定


最後の倭王興ですが、西暦479年の日本書紀の記述の裏を読むと、すでに亡くなっていたと考えられます。父の倭王済が人質となった翌年に倭国王となっているので、大和朝廷の目的は済ではなく、第一王子の興だとみなすことができます。
それでは、済と興が急死した理由はなにでしょうか。戦死とみなすのが妥当です。

倭王済と興の死因


新羅本紀にある西暦477年の倭人と新羅とのあっけない戦闘に、済と興が参戦していたと考えられます。百済復興の大恩がある新羅相手の戦争に済と興は駆り出され、軍功をたてるよりも敵前逃亡と軍律違反による死罪を選択した可能性があります。

さいごに


残る倭の二王については比定が困難です。

また、百済の王族が倭国王になることが起こりえるかは拙著で検討していますので、ワンコインの出費をご検討ください。

ご視聴ありがとうございました。


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