真理を学ぶと、痛みを伴う経験が不要になる
今回はハラランボス氏の著書を教科書にして、エゴイズムの性質とそのメカニズムについて復習しよう。
エゴイズムの恐ろしさは、たとえ言動にしなくとも、誰かが苦しんだり、困ったりする状況をイメージするだけで、そのイメージが 欲望-思考型エレメンタル となり、何らかの形でじぶんと相手を傷つけてしまうことにある。
イエス・キリストは悪魔(エゴイズム)の誘惑に屈しなかったが(新約マタイ4章1‐11)、ごく普通の人間がイエスのように 神聖なる法則 に完全に則って正しく考えるのはひじょうに難しい……なので、人間は転生を繰り返し、カルマの鞭 を受けながら、思考と感情のマスターとなるための勉強をするのである。
↑ このように、通常はカルマの鞭によって学ぶのであるが、耳と目を通じて真理を学び、痛みを伴う経験を持たないことも可能なのである。が、真理の教えを聞いても、素直に受け入れられないひとが多いのも事実、、、
真理の教えは、最高にぜいたくな勉強なのだ。
現在のパーソナリティー に巣食うエゴイズム……それを「お前はわたしではない」といって追い出し、ほんとうのじぶんを思い出してゆくのは、他でもないじぶん自身の責任であって、他の誰かに肩代わりしてもらうことはできない。
エゴイズムの性質とメカニズム
ひじょうに厄介で狡猾なエゴイズム(欲望-思考型エレメンタル)であるが、その性質とメカニズムについて理解すれば対策しやすくなる。
現在のパーソナリティー に染みついたエゴイズムの汚れを落としてゆくと、もとの美しい着物…… 永遠のパーソナリティー という 自己性 がみえてくる。それは 自己認識-魂 を包む、すばらしい真実の衣装なのだ。
エゴイズムのないひとは傷つかない
心配したり、傷ついたりするのは、ほんとうのじぶんではなくエゴイズム……なので、心配したり、感情的に傷ついたりする瞬間は軌道修正の絶好のチャンスといえる。欲望-思考型エレメンタル が生じた原因を突き止め、それを正しく 思考-欲望型エレメンタル に置き換えてゆく。そうすると、確実に嫌なことが減る……が、人生というグルは手を抜かない。前よりもほんのちょっとレベルの高いレッスンをすかさず与えてくる。
すべてを最愛の神にゆだね、地道に少しずつ成長してゆきたい。
キリストの磔刑の意味
次回は、愛がテーマの「真理の言葉」第5章を取り上げるが、ダスカロスの「ジョシュア・イマヌエル キリスト 地上での生涯とその教え」を何となく読み始めてしまった。
読み飛ばせないすごい本なので、なかなかページが進まない……真理、真実、本物がここにあり、さいしょの数ページで新たな気づきを得た。有名な「父よ、できることならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というイエスの言葉の意味……それがわかって心に刺さった。
キリストの磔刑は、こちらの記事に書いたこと だけではなく、重層的な深い教えになっている……罪(エゴイズム)のないイエスが何故? 罪人として多大な苦痛と汚辱を味わうことになったのか? 人類の集合意識に残酷で血なまぐさい磔刑を刻印したのか?……その疑問が解けたかもしれない。
イエスは、じぶんの死と復活の後に起きることを知っていたのだ。
3度も忠告したにもかかわらず眠っていた弟子たちの姿から、人類の意識の眠りの深さを知り、真理を理解しない人々がイエスの名において為すだろう残虐な行為が避けられない杯であることを予見し、天なる父に「御心のままに」といって罪の十字架を背負ったのだ。
イエスのもたらした真理の光は、エゴイズムの闇をより黒く、はっきりと際立たせてしまうものであった……が、その光がなければ地上は暗いままだったろう。流された血よりも多くのものが実り、栄えている。イエスはすべてのひとのために真理を説き、その言葉は地球の隅々まで響き渡り、極東アジアに生まれたわたしのところにも届いたのだ。
そのことを心から喜びたい。そして、イエスと共に目覚めていたいと願う。