今回は、「真理の言葉」16章を学ぶ。
真理はひとを自由にする
キリストは「真理はあなたがたを自由にする」といった(ヨハネ福音書8章 32節)。わたしたちが エゴイズムを克服 し、マインドのマスターになる ことができれば、無知(闇)から解放されるのであるが……そのような “真理” はほとんど、家庭や学校では教えられていない。
「わたし自身の人生」を振り返ってみると、実家は 安芸門徒 で、幼少時から仏教的な教えに触れる機会は多かった。浄土真宗 の「人間はみな仏さま、阿弥陀如来 の 本願 によって死後は全員お浄土にゆく」「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機)などの教えは堅苦しくなくて好きだったが、その教えを心底学びたいとか、帰依したいとは感じられなかった。
一方、公教育の場はどうだったかというと、倫理学、生物学、心理学などの授業は一通り受けたけれども、物質性を超えた人間の真実について学べるような授業は皆無だった。
で、これがちょっと謎なのだが……家族や親類にクリスチャンは一人もいなかったにもかかわらず何故か? 祖父母の家の本棚に「イエズスのおかあさん」という本があった。
いま思えばこの本と、7歳のときに叔父からもらった「ノンちゃん雲に乗る」が、わたしのスピリチュアルな旅の第一歩だった。が、そこからがとてもとても長かった、、、エゴイズム のぶんだけ寄り道し、カルマによる学び をたくさん重ねた結果、キリストの示した “道” の正しさが骨身に沁みてわかった。
「真理の言葉」16章では、“人間が学ぶべきこと” として、以下のようなことがクローズアップされている。
他にもいろいろあるが、焦ることはない。時間も空間も場所も無限にあるのだから……今世で達成できなければ、来世で学べばよいのだ。
“自己” が何であるかを定義する
“自己” が何であるか定義しなさいといわれたら、「霊であり、魂であり、永遠不滅の存在であり、神である」とわたしは答える。「ダスカロスの教え」を拝借しただけのオウム返しに聞こえるかもしれないが、この言葉の土台には、じぶん自身の経験と実感がしっかり据えられている。
ダスカロスは、後から来る人たちのために “道” を整えてくれた。そのお蔭で理性的に考え、迷いや疑念の霧を払うことができている。
わたしたちは外側にある何かや誰かが、じぶんの欲求を満たしてくれることを期待する……が、たとえ願いが叶って欲しいものが手に入っても、満足感は長続きしない。それどころか、前よりも強い不満と渇望に苛まれたりする。
なぜ?
“真理” の探求は、この「なぜ?」から始まる。物質的な執着は手放してもいいが、この「なぜ?」だけは手放してはいけない。なぜなら、それが人間を自由に導く “翼” だから! で、もちろん探究は「なぜ?」の答えをみつけたら終わりではない。学んだことを実践してゆかなくてはいけない。そしてそれが、「霊-魂」という故郷へ戻るための “じぶんの道” となる。
“真理”と共に生き、“神“と共に生きよう。
人間によって創造された エレメンタル の神々については、これまで何度か書いてきた。
エレメンタルは、それを創った人間の “願望” を果たそうとする。
エレメンタルは3次元的な時間や空間に縛られることなく、願望実現のおぜん立てをするためにプログラムされた機械のごとく働き続ける……が、エレメンタルはマインドを使えないので、波動的に共振する人間や他のエレメンタルに作用することで願いを叶えてゆく。
“真理の探究者” は、ほんとうの神とエレメンタルの神々を区別できなくてはいけない。これまで何度も繰り返し書いてきたことだが、わたしたちの “自己” はエレメンタルの集合体であるパーソナリティーでも、3つの体でもない。わたしたちの “真の自己” は、永遠の存在としての「霊-エゴ」(聖なるモナドとしての自己)なのだ。
3つの体の形態、物質を楽しむ
3つの体は、各々の 魂 の計画に沿って相応しい形に創られていて、ひとりの人間の肉体、サイキカル体、ノエティカル体は「同じ形」に創られるようにできている。
聖霊 と 基本元素の大天使たち が人間の3つの体の創造する際、「ノエティカル体の形態」が「サイキカル体の形態」に、「サイキカル体の形態」が「肉体の形態」に投影される。が、3次元に産まれ育った大人は通常(というのは 第4段階の意識レベル)、3つの体の間に意識的な連携がない。「じぶん=肉体」と思い込んでしまっているので、サイキカル体やノエティカル体とのコンタクトや操作性の向上を図る必要がある。で、その際は、「3つの体の形態は同じ」という前提でワークしよう。守護天使と一緒に選んだ肉体だから……いまの肉体を十全に愛し、肉体と共にベストを尽くそう。
ただし、別の転生においては、違う形の3つの体を持っていたことも意識しておこう。個々の人間の形態には、数多の転生における形態がすべて含まれている ので、霊的な成長が進み、“自己”意識 に目覚めたら、じぶんの望む形態で自己を自由に表現できるようになる……が、そのレベルに至るには、じぶんのパーソナリティーを、感情と欲望の奴隷状態(エゴイズム)から解放しなくてはいけない。
ダスカロスは観察力と集中力を駆使し、マインドを意識的に使う 内省 を重んじる。そうやって “内なる自己を知る” ことを 瞑想 と呼び、憑依のリスクがある東洋的な “心を無にする瞑想” は推奨していない。
「私たちはこの惑星上で、物質を楽しむために存在しています」という言葉は、物質の奴隷になることを意味していない。わたしたちは「霊-魂-エゴ」として物質、感情、思考のマスターとなり、あらゆる無知と不自由から解放されるために生きている。
それがほんとうの意味での、物質を楽しむことなのだ。