マガジンのタイトルを、「ダスカロスの教えに学ぶ」に変更した。ダスカロスの著書を精読し、実体験と照らし合わせつつ、ダスカロスの教え への理解を深めてゆく過程を記事化してゆく。
で、何故このようなことをはじめたのかというと、「頭で理解したこと」と「実行あるいは実現できること」の間にある落差を埋めたいから。
例えば エーテル・バイタリティー ……それがどういうものか? 本を読んで理解はしていても、それだけでエーテル・バイタリティーを自在に使いこなせたりはしない。体外離脱(非物質的な存在形態へのシフト)も同様で、偶発的に体験したこと はあれど、意図的な体外離脱はできないし、アチューンメント にしても「なんとなくそんな感じ?」のレベルを抜け出せていない……というわけで、理解とスキルのトータルな向上を目指し、「ダスカロスの教え」を一から学び直すことにした。
手法はごくシンプル。ダスカロスの著書を読み、内容について熟考するというもの。
じっくり時間をかけて読み込む過程で、気になった箇所をピックアップし、記事にしてゆく。で、前回は8章、今回は8章と9章を取り上げている理由は、ちょうどそこまで読み進めていたからというのと、ヒーリングへの関心が高まっていたからであって、とくに何か意図したわけではない。が、次回は1章に戻り、本の流れに沿って書き進めてゆく。
では、はじめよう。
「充分注意しなさい。その気質(エゴイズム)が光の天使のごとく現すから」というのは、エゴイズムがいかにも腹黒い形相ではなく、「自尊心」や「権利」や「善意」などの仮面をかぶって現われてくることがあるので、その手の欺瞞にも気づけるようになりなさい……ということだろう。
エゴイズムは日本語でいうと利己主義。
ダスカロスはエゴイズムを、「利己的な感情、敵意、妬みなどの欲望によって マインド を誤った目的に使うことであり、野放しになっている エレメンタル の総計で、個々のパーソナリティーから国家に至るまで、世界中の混乱や病気の根源となっているもの」……と説明している。
じぶんの感情や欲望に潜むエゴイズムを自覚できれば、それはエゴイズムとして暴走することはなくなる。自覚できなければ、エゴイズムという「原因」は病気、事故、トラブルなどの「結果」となって、じぶん自身に跳ね返ってくる。
ダスカロスが「真理の探究者」に勧める(強制や誓いではない)「7つの約束」の6番と7番は、以下のようなものである。
ダスカロスに関する本(メッセンジャー)をさいしょに読んだのは15年も前であるが、「7つの約束」の真価を理解できたのはごく最近のことかもしれない。「7つの約束」は、四角四面で形骸化した教訓などではなく、人間の意識を高次に導く実効性の高いスキルなのだ。
ダスカロスは、「先生は道を示すのみ。あなた自身が自ら歩まなくてはいけない」という。その言葉通り、彼は探究者自身が自問自答できるような形で講義している。
ダスカロスの講義は、ひじょうに深いレベルから聞き手の意識を啓いてゆく。が、じゅうぶんに集中し、注意深くしていないと、言葉が意識の網目からポロポロと零れ落ちる、、、「ダスカロスの教え」に触れた当初は、聞いたことのない独特の用語に戸惑うことが多く、それらの概念を理解することがひじょうに難しかった、、、が、いまははっきりわかる。ダスカロスと彼のガイドである 使徒ヨハネ(ヨハナン)は、彼らが真理として理解し、体験し、実現できたことを誠実に、愛をもって、学びを求める探究者に伝えているのだと!
応答はさらに進んでゆく。
パーソナリティーがエレメンタルによって形成されていること、わたしたちが 肉体、サイキカル体(感情)、ノエティカル体(思考)として表現しているじぶんも間違いなくじぶんではあるが、それらが「魂」から発された光の反射物のようなものでしかないこと。で、ほんとうのじぶんを知るには意識を「神」……すなわち、じぶん自身の「魂」に向けてゆかねばならないことがわかってくる。
57年かけてやっと……カルマの鞭ではなく、観察と瞑想によって学ぶことができるようになった。ずいぶん長くかかってしまったが、それでも到達できたことを嬉しく思う。そしていまの境遇は、さまざまな心配事や喧騒から離れ、学びに必要な時間を十分に持てるものとなっている。
「望んだことが得られる」というのは、ほんとうに有難い。神は寛大で、公正で、愛によって完全に満たされた存在だと実感する。