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【ダスカロスの教えに学ぶ2】病気の原因/ほんとうのわたし(「真理の言葉」第8章および第9章より)

マガジンのタイトルを、「ダスカロスの教えに学ぶ」に変更した。ダスカロスの著書を精読し、実体験と照らし合わせつつ、ダスカロス教え への理解を深めてゆく過程を記事化してゆく。

で、何故このようなことをはじめたのかというと、「頭で理解したこと」と「実行あるいは実現できること」の間にある落差を埋めたいから。

例えば エーテルバイタリティー ……それがどういうものか? 本を読んで理解はしていても、それだけでエーテルバイタリティーを自在に使いこなせたりはしない。体外離脱(非物質的な存在形態へのシフト)も同様で、偶発的に体験したこと はあれど、意図的な体外離脱はできないし、アチューンメント にしても「なんとなくそんな感じ?」のレベルを抜け出せていない……というわけで、理解とスキルのトータルな向上を目指し、「ダスカロスの教え」を一から学び直すことにした。

手法はごくシンプル。ダスカロスの著書を読み、内容について熟考するというもの。

じっくり時間をかけて読み込む過程で、気になった箇所をピックアップし、記事にしてゆく。で、前回は8章、今回は8章9章を取り上げている理由は、ちょうどそこまで読み進めていたからというのと、ヒーリングへの関心が高まっていたからであって、とくに何か意図したわけではない。が、次回は1章に戻り、本の流れに沿って書き進めてゆく。

では、はじめよう。

良いサイコセラピストは、自らの感情思考コントロールすることにより、少なくとも「エゴ」の意識存在として行動することでしょう。これが意味することは、自己の パーソナリティーエゴイズム完全に消し去らなくてはならないということです。それはたとえエゴイズムが自身を純粋で善なるもののように現しても、エゴイズムはエゴイズムだからです。キリストであるジョシュアイマヌエルは「充分注意しなさいその気質が光の天使のごとく現すから」と警鐘を鳴らしています。

は最初 サイキカル体 に投影として現われてきます。サイキカル体に影響を与えることはありませんが、サイキカル体の エーテルダブル に現われてきます。次にそれは肉体エーテルダブルに投影されます。それはエーテル・ダブルを通過するだけで、エーテル・ダブルは冒されることはありません。

病の主な原因は、“不満足” です。不満足というものは、満たされなかった欲望から徐々にゆっくりと発生してきます。あなたはどんな欲望であるか患者に理解させなくてはなりません。なぜそれらがこのような大きな危害をもたらすのでしょうか? ある欲望が単に達成されなかったという事実だけでどうしてなのでしょうか? 問題の本質的な原因は何なのでしょうか? 不満足は、パーソナリティーの中にあるものです。であり、何も治療を必要とはしていません。しかし、パーソナリティーとは物質的な肉体を持ち、しばしばコントロールされていない サイキカル体 や ノエティカル体 を持っている一人の人間なのです。また、パーソナリティーはしばしば混沌とした エレメンタル総体なのです。

従って、サイコセラピストは患者の感情面のプロセス思考のプロセスに目を向けなくてはなりません。そして、患者が感情の奴隷にならないように、思考をマスターできるようにさせなくてはなりません。

「真理の言葉」124-125頁、一部の太字化はNoelが実施

充分注意しなさいその気質(エゴイズム)が光の天使のごとく現すから」というのは、エゴイズムがいかにも腹黒い形相ではなく、「自尊心」や「権利」や「善意」などの仮面をかぶって現われてくることがあるので、その手の欺瞞にも気づけるようになりなさい……ということだろう。

エゴイズムは日本語でいうと利己主義

ダスカロスはエゴイズムを、「利己的な感情敵意妬みなどの欲望によって マインド を誤った目的に使うことであり野放しになっている エレメンタル の総計で個々のパーソナリティーから国家に至るまで世界中の混乱や病気の根源となっているもの」……と説明している。

じぶんの感情や欲望に潜むエゴイズム自覚できれば、それはエゴイズムとして暴走することはなくなる。自覚できなければ、エゴイズムという「原因」は病気、事故、トラブルなどの「結果」となって、じぶん自身に跳ね返ってくる。

ダスカロスが「真理の探究者」に勧める(強制や誓いではない)「7つの約束」の6番と7番は、以下のようなものである。

、私のあらゆる思考・願望・言葉・行動が 神聖なる法則 と完全に一致することを目的として、毎日 絶対無限の存在 について瞑想し、熟考します。

、私のあらゆる思考・願望・言葉・行動が神聖なる法則と完全に調和したものであるかどうか、毎晩確認します。

ダスカロスに関する本(メッセンジャー)をさいしょに読んだのは15年も前であるが、「7つの約束」の真価を理解できたのはごく最近のことかもしれない。「7つの約束」は、四角四面で形骸化した教訓などではなく、人間の意識を高次に導く実効性の高いスキルなのだ。

ダスカロスは、「先生は道を示すのみあなた自身が自ら歩まなくてはいけない」という。その言葉通り、彼は探究者自身が自問自答できるような形で講義している。

もし医者が死んだ人を検視すれば、その肉体の中にすでに生命力がないことに気づくことでしょう。私たちはその生命力を エーテルバイタリティー と呼んでいます。しかし、これは生命の根源ではありません。しかしながら、それは 根源なるもの 聖なる大天使たち の権威の下に置かれています。それは聖なるバイタリティーであり、最も低い周波数、しかし肉体より若干高い周波数で波動している一種の マインド なのです。私たちはそれを知り、利用できなくてはなりません。

私たちが既に学んできたように、最初にエクササイズを通して集中瞑想を学ばなくてはなりません。すなわち、集中瞑想のスキルを身に付けなくてはならないのです。次の段階では、自分自身の肉体に対して、「この自分の肉体は一体何であるのか?」と自問します。そして、ここでさらに次の段階に進みます。肉体に接近しやすくなります。肉体についていろいろ探究していきたいと思うようになります。しかし、またここで自分自身に「誰が肉体を動かしているのだろうか?」と自問します。肉体はそれ自体で動いてはいません。「」が動かしています。しかし、その「私とは誰であろうか?」と。私は目が覚め、私はベッドから起き、私は着替えをする。このとき、自分の体に洋服を着せる。私の体を動かすなどと表現しますが、この私とは誰でしょうか? そう考えると、あなたは別の考え方に辿り着くと思います。そして「私は何か一種のパーソナリティーのようなものである。しかし、その『私である』ということは何であろうか? 私は自分の肉体ではない」ことに気づくことでしょう。

ここから探究が始まります。私とは誰であるのか? この学びは肉体についての学びよりもっと難しいものです。

「真理の言葉」138-125頁、一部の太字化はNoelが実施

ダスカロスの講義は、ひじょうに深いレベルから聞き手の意識を啓いてゆく。が、じゅうぶんに集中し、注意深くしていないと、言葉が意識の網目からポロポロと零れ落ちる、、、「ダスカロスの教え」に触れた当初は、聞いたことのない独特の用語に戸惑うことが多く、それらの概念を理解することがひじょうに難しかった、、、が、いまははっきりわかる。ダスカロスと彼のガイドである 使徒ヨハネ(ヨハナン)は、彼らが真理として理解し体験し実現できたことを誠実に、愛をもって、学びを求める探究者に伝えているのだと!

応答はさらに進んでゆく。

パーソナリティーエレメンタルによって形成されていること、わたしたちが 肉体、サイキカル体(感情)、ノエティカル体(思考)として表現しているじぶんも間違いなくじぶんではあるが、それらが「」から発された反射物のようなものでしかないこと。で、ほんとうのじぶんを知るには意識を「」……すなわち、じぶん自身の「」に向けてゆかねばならないことがわかってくる。

あなたは生命です。あなたはであり、であり、自身をパーソナリティーとして表現している「」なのです。あなたはであり、自分の映った影を男あるいは女として見ています。あなたはとしての生命を生きているのです。ここであなたに質問させて下さい。「私たちが 自己実現 と呼んでいるものに、あなたはどこから入っていくと思っていますか? 空間に移行するのでしょうか? それともある場所からでしょうか? この自己実現はどこに存在しているのでしょうか?」 自己実現はどこにでもあり、今存在しています。あなたが今いるところから離れ、どこかに戻る必要などありません。あなたは今既に無限の存在の中に存在しているからです。

すると、ある人は次のように考えるかもしれません。「だから、私は厳しいワークをして、もっともっと成長しなくてはならない。今と同じ状態でただ待つなんてまっぴらだ」

あなたの希望のいかんに拘わらず、あなたは成長していきます。なぜなら、それがあなたの本質だからです。しかし、成長には二つの道があります。一つは運命の鞭カルマとも呼ばれています)、あるいは理性による導きの道です。もう一つの道は、観察と瞑想の学びから学習する方法です。この道であなたはレッスンを学ぶための特定の境遇に耐えるような経験をする必要がありません。しかし、出来事や物事の魅力や魔法にかけられて、この道を望まなければ、同じ誤りを何度も何度も繰り返し、同じような経験(私はこれを罰とは呼びません)を被ることでしょう。あなたはこれら二つの道のいずれかによるレッスンから学ばなくてはならないのです。これは 原因と結果の法則 に従っています。

「真理の言葉」145-146ページ、一部の太字化はNoelが実施

57年かけてやっと……カルマの鞭ではなく、観察瞑想によって学ぶことができるようになった。ずいぶん長くかかってしまったが、それでも到達できたことを嬉しく思う。そしていまの境遇は、さまざまな心配事や喧騒から離れ、学びに必要な時間十分に持てるものとなっている。

「望んだことが得られる」というのは、ほんとうに有難い。寛大で、公正で、によって完全に満たされた存在だと実感する。