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「弱さ」が言語化力と聴く力を育む(群像2022年10月号) | きのう、なに読んだ?

「群像」2022年10月号を手に取った。鷲田清一さんが寄稿した中井久夫さんの追悼文を勧められたからだ。休日の午後、思いがけず集中して読んだ。鷲田さんの文章も良かったうえに、特集「『弱さ』の哲学」が私の関心と重なっていた。

私の関心は:
●「聴く」こと、そして「言語化」すること、それ自体への関心。
●人が成熟し、それから人と組織の関係が良くなっていくのに、「聴く」と「言語化」が欠かせないと信じていること。
●「聴く」と「言語化」が起きる場である「対話」。
●自分が「聴く」「言語化」「人と組織」に関心を持ち続けていること自体にも関心がある。

「弱さ」をめぐる論考は、「聴く」「言語化」「人と組織」を探求するための補助線として、かなり有力だという感触を得た。

私が社会的スティグマを負った状況や、その集団における「普通はこうだ」という暗黙の了解とは違う考え方や構えを取ったとき、「普通」とされた考え方しか知らない人とはコミュニケーションが取りにくくなる。幼少時の海外生活でクラスで唯一の日本人だったとき、その後社会に出て自分のジェンダーとキャリアと家庭との間で葛藤したとき、あるいはクリエイターに囲まれて自分のビジネス論理の通じなさに直面したとき。そんなとき、なんとか通じ合いたいと願って、コミュニケーションを諦めず、burden of proof (立証責任)は私が負おうとしていた。そうしないと、孤立してしまってそこで生きていけなくなるから。これが私の「言語化」の原動力ではないかと考えている。

私は、「弱さ」を持った人が自らの弱さを語る言葉に惹かれることが多い。それはアメリカの言論空間におけるアフリカ系アメリカ人の言説であったり、依存症者の回復にまつわる「当事者研究」の考え方であったりする。アフリカ系アメリカ人に親しい人はいないし、依存症者の援助に特別な関心はないのに、なぜだろうと我ながら不思議に思うことがあった。それは、普通ないし王道とは違う立ち位置の人たちが誇りを持ってフラットに自らの立ち位置を語る言葉と構えに、インスパイアされるからなのではないか。そんな仮説を最近立てていたところ、「『弱さ』の哲学」特集を少し読んでみて、確信が深まった。

「弱さ」は、社会的スティグマだけではない。「立場が強い側が望ましいと規定する状態を達成できない」状態も「弱さ」だ。教師に勉強ができないと叱責される生徒、上司に仕事ぶりを否定される部下。でも成績や仕事ぶりを教師・上司が叱っても、本人が自責の念にかられても、改善することは稀だ。「頭では分かっているが…」となる。そんな状態のとき、「聴かれ」「聴く」機会を重ねることで自己理解と自己受容が深まり、それが次の扉を開くことを、私は経験と共に学んでいる。このことについても、より緻密に理解するヒントをこの特集から得た。

「『弱さ』の哲学」特集の全文はまだ読んでいないが、ここまで目を通して印象が強かった2つの論考から、私が気になったところを以下に引用しておく。

私たちが生きているこの現代社会では、コントロールできないものですらも、意志の力でなんとかできるはずだという精神論が蔓延し、あらゆるところで事実が歪められ続けています。どうしたって変えられない対象はたくさんあるのに、「自分や他者や状況をコントロールして望ましい状態を達成せよ」というメッセージを浴びて育つ私たちは、無理に何かを変えようとしては、あちこちで問題を起こし、苦しみ続けます。

中村英代「<意志の力>への信仰が揺らぐ時代にーー「弱さ」の可能性」群像2022年10月 p. 189

平安の祈り
神様、私にお与えください
変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つのものを見分ける賢さを

中村英代「<意志の力>への信仰が揺らぐ時代にーー「弱さ」の可能性」群像2022年10月 p. 190

教育現場には、叱る場面、否定する場面がーーいわば意志の力への信仰に根ざしたお決まりのパターンがまだまだ溢れかえっている(略)。だから、そうした場面に出くわした時に、ただ事実を見ようとするだけで、ただ相手の事情を確認しようとするだけで、そこに新しい現実が突如として立ち現れてくる時がある

中村英代「<意志の力>への信仰が揺らぐ時代にーー「弱さ」の可能性」群像2022年10月 p. 192

人には、自分より立場が下の人の話を聞かず、状況も確認せずにーーつまりは、ろくに関心を払わないまま思い込みを前提にコミュニケーションを進めてしまう傾向性がある。(略)
だから、いま弱さと見なされているものは可能性を多分に含んでいます。弱さは無視されるか、あるいは、支配やコントロールの対象とされがちなので、別のスタンスでそこを掘り起こしていけば、隠されていた事実が、その人固有の事情が、語られていない語りが現れてくることがあります。新しい世界がふっと開ける時があり、私はここに可能性を感じています。

中村英代「<意志の力>への信仰が揺らぐ時代にーー「弱さ」の可能性」群像2022年10月 p. 194

「弱さ」を持つ人に耳を傾けると、聴き手はまず、「変えられないものと変えられるものを見分ける賢さ」を得るのではないか。そうして耳を傾けられた話し手は、まず「落ち着き」そして「勇気」を得る。「聴く」「聴かれる」を重ね言語化が進むうちに、「平安の祈り」は聴き手(強者)と語り手(弱者)双方に、等しく恵みをもたらすのだろう。

「自らの弱さを自らが語ること」、それは一般的にはカミングアウト、告発、あるいは抗議と呼ばれることが多い言説だ。(略)社会的スティグマあるいは被差別性といった「立場の弱さ」を自らが語ることによって生まれる「力」

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 177

社会運動には例えば裁判の原告に対する支援活動など、サポートもその一つであるため、支援者が「期待通りの理想の弱者」を求めて右往左往する要素も多く含まれている。「期待通りの理想の弱者」はまさにそれゆえに金や権力を引き出してしまう。

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 179

期待通り・理想通りの弱者を求め、求められた弱者が期待に応えて語ったり、振る舞ったり、演じたりする(あるいはその期待や理想に答えない)行為によって生まれる力、あるいは単純に自分の弱さについて堂々と「誇り(プライド)」を持って語る力。どちらにしても弱さが公に打ち出される時に力が生まれるのだ

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 180

1960〜70年代は労働運動のみならず社会運動においても組織の力が強かった(略)。しかし1990年代になると、複数のイシューでその渦中の当事者が「個」である「私」として自らの立場を語るようになった。

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 181

誰かが差別を受けていたことを話した時に「こっちも(マジョリティや抑圧している側も)辛いんだ」と語ることは、どこまで意図的であるかはともかくとして、相手の言葉に耳をかさず既得権を温存する上で実にいいやり口だ。(略)それこそDV被害を訴えたら「自分こそ被害者だ」と語る加害者が典型である。(略)「自分は被害者だ」と語り始めた時、パワーバランスを察知するのに非常に長けた人間がその「力」(だけ)を鋭く嗅ぎつけ、「自分たちこそが被害者だ」と主張し出したのだ。

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 182

「社会的弱者」と呼ばれる立場の人間が「語りたい」と思うのは、注目を集めたいからだけではない。「自分自身のため」等々その理由は語り出す人間それぞれあるだろう。だからこそその語りたい「願い」は、神秘的と言ってもいい力だ。弱者に対して理想や期待がある者たちや、あるいは弱さを主張することで実は目を惹くことのみ考える人間には到達できない性質の力だからだ。

栗田隆子「おのが社会的弱さを語ることーーそれを取り巻く力について」群像2022年10月 p. 182

弱者が語ることによって生まれる「力」は、私にも実感がある。そして「語りたい」と思う動機や背景、誇りを持って語る構えと言葉、これらをどう獲得するのか、引き続き探究していこうと思う。

このnote の前置きを、こちらに書きました。良かったらどうぞ。

今日は、以上です。ごきげんよう。

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