個性の終わり
個性なんていう言葉はちょっと無思考にもてはやされすぎてるんじゃないかなと思う時がある。
本当に個性は大事か?っていうことを突き詰めると違和感を感じる瞬間は少なくないと思う。
例えば、人を紹介するときに使う「彼・彼女は個性的な人だ」という発言は背後にある彼・彼女は決して美しくないけど、、、と言う意味を隠しているし、
絵画を紹介するときに「個性的な絵だ」は
決して才能はないけど、、、と言う意味を隠している。
特に美人や才能を持った画家が言うこの手の発言は欺瞞だと思ってしまう。たぶんそう。
美が絶対的であることが、その個性尊重主義的な発言に宿ってしまっている。個性なんて言葉は、美に対する居直りにすぎないのかもしれない。ルサンチマンの裏返しである。
例えるなら、個性とは美の枠組みから外れた人間が、人生という名の大海原で溺れないための救命具に近いのかもしれない。
非美男美女は人生の早くから諦めをつけ、個性尊重主義に走るのだ。個性と言う名の救命具を着ることで、人生をなんとか生き通せる。一方で美男美女として生まれてきた人間たちはこの手の救命具は持ち合わせていない。彼等自身が持っている絶対的な美を信じることができるからだ。
個性は、自己防衛であり、絶対的価値基準からの逃避であるのだ。そんな救命具は捨ててしまった方が生きやすそうではないか。
三島由紀夫はエッセイ「個性の終わり」の最後にこう記した。
私は「私の鼻は大きくて、魅力的でしょ。」などと頑張っている女の子より、美の規格を外れた鼻に絶望して、人生を呪っている女の子の方を愛します。
それが、「生きている」ということだからです。
(行動学入門 三島由紀夫)
絶対的価値基準から目を背けず、そこから逸脱した自分の人生に絶望し、死にたくなるくらいでちょうどよいのではないか。生きるとはそういうものなのだと思う。
参考文献
三島由紀夫, 行動学入門, 文春文庫.
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