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文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』
『ブレザーもスカートも私にとっては不適切。姿見に投げ込まれたまとまりが、組み立ての肩肘を緩め、ほつれていく。配られた目を覗きこめば、どれも相違している。そこで初めて、一つ一つの衣を脱ぎ、メリヤスをときほぐしていく。
それは、適切な世界の適切ならざる私の適切かつ必然的行動。』
タイトル買い詩集。適切な世界の適切ならざる私。口ずさみたいタイトル。何回も口ずさむ。適切な世界の適切ならざる私。適切ならざる世界の適切な私、ではない。『私』こそが世界には適さない。
世界が適切だと感じたことがありますか。
いいえ。
じゃあ、私こそが適切ですか。
いいえ。
じゃあなにが適切ですか。
なにもかも不適切です。
ブレザーを着ていたあの頃の私が姿を現す。小賢しい子供でしたが、早熟な子供でしたが、高校生活は楽しかったよ。今でも思い出すし、高校時代の友達といまだに遊ぶよ(これは他人に興味のない私にとってはとても奇跡的なこと)、なのに、なにもかも不適切だと断じていた。そういう季節があった。そういう季節がなければ、私はこの詩集をタイトル買いしなかった、かもしれない。
この詩集は少女の詩集。
遠い場所に立ち、水面を、鏡面を透かして世界を観る、そんな少女の詩集。
何度繰り返して読んでも、少女は遠くに立っている。私は少女に触れられないまま、詩集を読み続けている。高校生の時に読んだら、少女は近くに来てくれたかもしれないけど、ううん、やっぱり近くに来てはくれないかもしれない。
「書かないと、死んでしまうから」
書かないと死ぬ気がしてきたのは結構最近で、つまりもしかすると私は今でも適切な世界には適せていないし、そしてたぶん、一生適せないかもしれないし、今の私じゃなければ、この詩集と出逢わなかったかもしれない(そもそも詩集なんて読もうとしなかったかもしれない)。
今、この瞬間の私こそ、最も適切ならざる私である。そんな私が誇らしい。
そう感じるあなたが少女でなくとも、この詩集はあなたの奥底に凛と積もる言葉をくれるはず。仕事で疲れた身体をベッドに投げるその前に、瞼を閉じるその前に、この詩集と出逢って欲しい、と願って私は寝ます。おやすみなさい。
・文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(筑摩書房、2020年)
私は上記のちくま文庫で購入しましたが、詩集出版自体は2009年のようです。十一年も前にこの詩集が出てたなんて、なんだか勇気が貰えます。
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