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自称クリエイターになるまでの道(約3000字)

昨日、自己紹介ということで、
詳しいかは分かりませんが、
書いていきました。


今日は長くなりますが、
自己紹介の続きも兼ねて
自称クリエイターになるまでの
私の創作人生を語りたいと思います。

面白くはないと思いますが、
当時の思い苦労話も含めてお話しします。


長いため、目次を作ります。


園児の時の創作

園児の頃から創作というものは始めていたように思います。
今でも販売されていますがポケモンキッズという指人形を用いてストーリーを作っていました。
おままごとのようなものです。

その頃、お絵描きも好きで富士山をキャラクター化して紙芝居を作っていました。太陽が昇り、富士山が「まぼしい(眩しいと書きたかったのだと思う)」と言うシーンは今でも印象強く残っています。


小学生での模写と小説

小学生の時にはポケモンが好きで、
ポケモンを模写していました。
小三くらいの時に、ノートを買ってもらってオリジナルの小説も書き始めました。
その小説の第一部を書き終えたのが中二の時です。
すごく拙い文章ではありますが独創性はあったと思います。
まぁ、ポケモンのパクリみたいな話のため出すことはしません。

小三の時に二分の一成人式という学校で書くものがあり、将来の夢の欄に画家と書いたのを覚えています。
今もその紙は保存してあります。


中学生での小説とイラスト

中二からは小説の第二部を書き始めました。しかし、文章力が上がったものの想像力が落ちていました。構想はあるものの面白くない。

それからは小説ではなくイラストを描き始めるようになります。オリジナルのものは描けないため、やっぱり模写です。
ポケモンからアニメの人物キャラクターになります。

中三の時に、5年後の自分に手紙を書きました。その時に書いたことが、「オリジナルのキャラクターは描いていますか?」です。


高校生での転機

高校に入ってからも模写は続けて、転機が訪れます。
理系のコースに進み、高二の時です。
数学の担任の先生が苦手で、数学の授業は地獄でした。朝学習(SHR前に0限として1時間行われる学習の時間)にうるさい先生でした。
自習をするなら自宅で良いと思って行かないことが多々あり、かなり怒られていました。
この時期は大人に対する反抗期で、先生に対してよく反抗していました。

数学の授業中に退屈で落書きをしていました。
模写でやっていたように思い出しながら描きます。
始めは授業が退屈だなと思って書いていましたが、数学の授業3時間分くらい描き続け、もっと良くするにはどうしたらよいかと授業のことを忘れて描いていました。幸い見つかったことはなかったです。
数学のテストは赤点ギリギリでした。


原点となるオリジナルキャラクター(←)です。
その後に描いたキャラクター(↑、→)です。
全て授業中に何も見ずに描きました。


そこから、そろそろオリジナルのキャラクターを作れるのではないかと思い、描いてみました。2019年に年賀状用に子年のキャラクターを描いたものです。それが「灰咲千花」です。


初めてのオリジナルキャラクター「灰咲千花」です。



ここから苦難は始まりました。


大学受験の苦難

進級するにあたり、理系から文系にコースを変更してもらいました。
高三の先生は笑顔なのに棘のある厄介な先生でした。
進路の話をしなくてはならないことがあり、その度に反抗していました。
話しても全然理解してくれない先生でした。

当時は小説家になりたくて、文芸の大学に行こうとしていました。
芸術は狭き門というのはわかっています。それでも売れている人はいます。
それに、その先生にどうにかしてもらおうなどと思っていません。

進学校ではあるため、もっと学力の高い大学に行ってほしいのだと察してはいましたが、卒業する学校の餌になるために自分の進路を曲げてはいけないと思いました。


芸術系の大学生活

結局、始めに行きたかった大学には行けませんでしたが、東京工芸大学 芸術学部 映像学科に行きました。映画のシナリオでもストーリーは書けるため、良いとその時は思っていました。

大学では映画について学び、シナリオの書き方についても学びました。小説にも応用できるため、知れて良かったです。想像力の方はまだ迷走中です。
シナリオのコースもありましたが、なぜか映画のコースを選択していました。

三年生と四年生の二年間は授業で映画の撮影をしました。
私はスクリプター制作部をやりました。
夏に撮影を行うためかなり暑く、熱中症で倒れそうになる人が続出していました。
監督は厳しくないのですが、演出の方が時間にうるさく圧力がすごかったです。
殺伐とした現場、少しのミスでもあれば怒鳴られます。
制作部の時は問題も多く、何度やめたいと思ったことか。


就職活動の苦難

大学後の進路については右往左往していました。
仕事でやりたいことなんてなかったです。
こんな生活をしたいはあるけど、この職業に就きたいというのはないです。

少し就職活動はしましたが、受かることはなく卒業間近になりました。

教授から撮影の仕事で人手が足りないから、やってみないかと誘われ一度だけ引き受けました。
大学での撮影の授業で今後はやりたくないと思ったのに、引き受けていました。きっと、仕事がどんなものかやってみたかったのでしょう。


撮影の仕事

詳しく話を聞いてみると、ドラマの撮影でした。
1か月の間、岩手県の遠野市に行き、録音の助手として仕事をしていました。
仕事環境はあまり良くないです。怒鳴り声が飛び交い、普通に喫煙をしています。
全然自分が悪くないのに、怒られることも多かったです。技師の人の命令ともう一人の助手の人の命令が噛み合っていないことも多く、その皺寄せが自分に来ます。それに周りの人が怒られていると自分が怒られているわけではないけれど、そっちの方が辛くなります。
自分とは環境が合わず、治ったと思っていた喘息が再発しました。半年で治りましたが、今後どうなるのか。
最後の方は心を殺して、仕事をしておりました。命令に従い急いで行って、道を渡る時に交通事故に遭えたら良いなと思っていました。


自称クリエイターへの道

撮影の仕事が終わり、人の下で働くことが怖くなりました。
この世界のことがなんとなく知れたから、もういいかなとも思い、昨年の夏でこの身を絶つことを考えていました。
学生生活が終わり独身で、死ぬのなら今しかないと真剣にそう考えていました。

学校生活も終わり一人でいる時間が長く、夏になるまでの間に人生を振り返っていました。
大学時代までに描いたたくさんのイラストがありました。
夏まで少し時間があり、来年の干支でも描くかと2025年の干支「縄田紅夢」を描きました。
それから、イラストを描き続けています。

そして、現在自称クリエイターとして活動しています。


この身が滅びるまで、創作を続けていきたいと思います。
作品が売れなくて餓死するのなら、それでも良い
私が私でいられるのなら


自分でできることは自分でやれば良いではないのでしょうか。
自分でできないのなら諦めるしかないと私は思います。
人に頼るようなことはしません。

良いと思ったら良いと反応すればいいし、嫌なら離れてくれて良いです。



今年は小説イラストの2本で活動します。
オリジナルLINEスタンプ作りたい。


年齢活動時期など、なんとなくわかってしまうかなと思います。

長文失礼いたしました。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。
星宮幽鬼でした♪

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星宮幽鬼 -Hoshimiya Yuki-
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