賽の河原か?!
私は、女であり、母であり、妻であり、職場ではディレクターでありと、いくつもの役割をもっている。母業は息子が成人したので今では随分役割が薄まったが、いろんな役割を持っていられておかげさまである。
子供がまだ乳児さんだった頃、私は「うつ病」になった。このいくつもの役割に押しつぶされそうになった。なんだか毎日泣いていた。
当時、自分一人の力では、気持ちをどうにもこうにも持ち上げることができずお医者さんやカウンセラーの力を借りていた。「母も妻もディレクターも嫌ならやらなくていい。だけど、あなたはとても贅沢者であることを忘れてはいけない。」と言われたことはコントロールできるようになった今でも忘れられない言葉である。
だいぶ元気になった頃、それでも「女」「母」「妻」「ディレクター」の仕事は次から次へとやって来た。毎朝早起きして、お弁当を作って、朝食作って、掃除して、洗濯して、会社で仕事して、いろんな課題に対応して、帰りに買い物して、夕食作って、息子の諸々を対応して。
でも、ホコリは次の日にはおんなじように溜まっていく。お弁当を作ってもまるっと残して帰ってくる。息子はいろいろやらかしてくれる。学校のことも近所の対応も「母」の仕事と認識されていた。学校の緊急連絡先にはパートナーの方を一番に書いたのに電話がかかって来るのは「女」方。
ミーティング前にドリンクをだすのは「女」の私。仕事を手を止めて接客や電話対応するのも「女」の私。共有部分が汚れていたら掃除するのも「女」の私。気がついているのかいないのか?だれもありがとうも言わない。
ゴミを捨てに行くことはするがゴミを集めることはしない人がいる。洗濯は毎日しても同じだけ溜まっていく。洗濯機を回すけど、取り込んだりたたんだりはほとんどしない人が家にいる。食べたら食器洗いがついてくる。洗ったら偉そうにする人が家にいる。お風呂掃除もめんどくさい。お風呂掃除ってナニ?と思っている人が家にいる。その他、ヘルプをお願いしても「仕事中」やら「君の代わりはできない」の返事。母子バトルが日々展開しても「くだらない」と言って関わろうとしない人が家にいた。
賽の河原か?!ここは?!
毎日毎日、一個一個、片付けていっては、また同じことを繰り返す。積んでの積んでも見えない鬼が崩して行く。無駄な努力を積み重ねているような感覚の毎日を何年間か過ごした。疲弊してふてくされた。
そんなことが続き、ようやっと気が付いた。「母」だの「妻」だの「ディレクター」だの背負うから苦しいのだ。「私」は私のやりたいことをすればいいのだ。きれいにしたいから掃除をして、食べたいから料理して、関わりたくなかったら無理ににこやかにしなくていいのだ。と。
「女」はこうあるべき。「母」はこうあるべき。「妻」はこうあるべき。といった縛りに「私自身」がとらわれ過ぎ、評価を求めていたのかも。褒めて欲しかったのかもと。
役割によって与えられた仕事はとても大事だったとも思う。確かに役割をいくつも持った「贅沢者」であったと思う。賽の河原で積んだ石が崩されても、今はまた積むことが楽しいかも!と思える。
そして、毎朝、嬉々として床のホコリを掃除機で吸い込んでは、きれいになる様子に満足する自分がいる。さて今日も明日も掃除洗濯炊事にお仕事!
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