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【日本神話⑯】邪馬台国と卑弥呼(下)

 大阪府立弥生文化博物館には、邪馬台国と卑弥呼について、魏志・倭人伝とは別角度の展示と解説がありました。また、「魏志」の魏よりも古い後漢時代を書いた歴史書「後漢書」の中の「東夷伝」も邪馬台国と卑弥呼に触れているので、それも合わせて紹介します。ただし、「後漢書」は魏志よりも後に編纂されており、ここに描かれた邪馬台国と卑弥呼像は「魏志・倭人伝」を参考にしたものというのが、現在の定説です。実際、文章はほぼ同じです。

中国・遼東半島の公孫氏と卑弥呼

 後漢書に書かれた部分として特徴的なのは、邪馬台国の卑弥呼よりも先の時代の倭奴国王、倭面土王らの朝貢も書かれている点です。以下の通りです。
・「後漢の建武中元2(57)年、倭の奴国が朝貢し、使者は大夫と名乗った。倭国の極南海である。光武帝(初代皇帝、在位25~57年)は印綬(漢委奴国王)を与えた」
・「安帝(後漢6代皇帝、在位107~125年)の永初元(107)年、倭の国王・帥升すいしょうら(類書には倭面土王・帥升とある。倭面土はヤマト(ワメト)王?、倭のイト王?・・・最近では吉野ケ里遺跡のある目達原めたばる地域を指した倭のメト王を唱える研究者もいる)が、生口百六十人を献じ皇帝の面会を求めた」
・桓帝(11代、在位147~167年)・霊帝(12代、在位168~188年)の間、倭国が大いに乱れ、代わる代わるお互いに攻撃し合い、暦年、主がいなかった。一女子がおり、名を卑弥呼といった・・・(後は魏志と同じ)」

大阪府和泉市の府立弥生文化博物館の展示パネル(2024年11月22日撮影)

 この記述から、卑弥呼が倭の国々に共立されたのが後漢が滅びる寸前、桓帝から霊帝時代の頃だと推測されます。それらを踏まえた弥生文化博物館の展示はまず、中国の情勢を解説します。

 それによると、後漢は184年に起きた農民の反乱「黄巾の乱」で疲弊し、220年に滅亡。中国各地では魏、呉、蜀の「三国時代」となりました。この頃、魏の東隣の遼東半島では後漢の地方官だった公孫度がそこで半独立政権を打ち立てました。この公孫氏と邪馬台国が関わっているのではないかというのが、今回のお話です。

公孫氏が邪馬台国へ送った刀?

同館の展示パネル(同日撮影)

 表紙のレプリカ刀の写真と展示パネルの記述の通りなのですが、後漢の「中平」という184年から7年間の年号が刻まれた刀が、奈良県の東大寺山古墳から出土しました。この年号が邪馬台国の卑弥呼の時代と重なるというのです。

 そして、公孫氏が治めた遼東半島の政権は、朝鮮半島や日本などとも深いつながりがあったと思われるのです。中国は戦国乱世の「三国時代」ですから、公孫氏も韓国や倭国などの同盟相手を必要としていたし、倭の邪馬台国も倭国内の情勢から大陸とのつながりを持ちたがっていました。

 234年に諸葛亮孔明が死んで蜀の力が急速に衰えると、魏は次に朝鮮半島方面へ軍を向け、238年に公孫氏を滅ぼしました。邪馬台国の卑弥呼は238年に魏に朝貢しています。慌てて使者を派遣したのかな?と想像しちゃいます。一方、魏にとっては極東僻地の島国だったとしても、同盟国の増加や敵対するかもしれない勢力の減少、戦域の拡大が避けられるのなら、倭の朝貢は歓迎だったでしょうね。

 もし「中平年銘の刀」が公孫氏から同盟の証しとして邪馬台国に贈られたものであるとするなら、邪馬台国は畿内説有力!となるのかもしれません。一方、公孫氏が選んだ同盟相手が邪馬台国とは限らない可能性もある。

 邪馬台国=畿内の纒向まきむく政権=大和王権でないとしても、邪馬台国の出先機関があった伊都國を経由せずに、どこからか?出雲か山口県か?敦賀港か但馬地方のどこか?から、独自に海を渡って大陸へ行って「刀をもらう」行為ができたということにもなります。というか、纒向政権=大和王権の発掘物からは実際に大陸と交流がある証拠が出ています。

朝鮮半島由来の鉄剣が出土した長野県木島平村の弥生時代の根塚遺跡(2011年5月20日撮影)

 ただし、弥生時代遺跡からの大陸・朝鮮半島周辺由来の鉄剣の出土は九州、畿内に限らず、例えば長野県木島平村の根塚遺跡という例はあります・・・。「根塚の鉄剣」の伝来について詳しいことは分かっていません。この地と朝鮮半島との政治外交の結果なのか、朝鮮王族の難民がここまで逃げて来たのか???

 「中平年銘の鉄刀」に戻ります。これが出土した奈良県の東大寺山古墳は4世紀後半の築造とされていますので、刀の製作は古墳の築造年代より約100~150年前ということになります。もちろん、畿内の王というか大和王権に古来より長く受け継がれた後、この古墳の埋葬者が望んで一緒に埋められたとも考えられるでしょう。そもそも大陸・朝鮮周辺で長年受け継がれて、大和王権のこの時代に骨董品的な刀が渡ってきたのかもしれませんね。もしかしたら、大和王権が大陸・朝鮮周辺に攻め込んだ際の戦利品かもしれません。

弥生時代は戦国時代  大政権は全国に複数あり?

写真上下とも大阪府和泉市の池上曽根遺跡で再現された大型建物(2024年11月22日撮影)

 まとめると、邪馬台国が数多くの国を従えていたことが分かりましたが、まだまだ全国統一には遠い印象です。場所が九州でも畿内でも他地域でも、邪馬台国に匹敵する大国は、直接戦争した狗奴くな國に限らず、全国に複数あったとみていいと私は思います。

 個人的にはなんとなく、弥生時代までは九州、畿内(+淡路、四国、中国、中部)、関東(毛野)、東北(蝦夷)は別の社会文化圏として歴史を刻んでいるのではないかと思います。お互いに交流や戦争はあった上で。もちろん琉球、北海道(アイヌ)も。

 想像だけで勝手言うなら、畿内政権は北部九州まで勢力下にしていたかも知れません。それこそ對馬、一岐、末盧、伊都、奴、不彌まで。さながら吉野ヶ里遺跡は狗奴国への最前線基地かも知れませんね。伊都の長官(将軍)の城。それなら邪馬台国の南に熊襲の国もありかも知れませんしね。

 弥生時代の日本には、後世まで名前が伝わらなくとも、九州のA氏、山陰のB氏、四国の、畿内の、東海の…といった「弥生の大名」がいたと思います。例えば何の歴史も伝わっておらずに大坂城跡や江戸城跡が完全に地面の下に埋まって見えていなかったとしたら、姫路城ほどの白亜美麗な城、熊本城のような漆黒剛健な城を見て、あれこそ日本の王の城に違いない!と思うでしょうね。今でも外国人観光客はそう思うかもしれません。でも違う。あんなに立派だけれども王城ではない。

 一方で、天皇がいた御所・宮廷は、軍事要塞的な城とは一線を画した平面的な大きさと優雅で平和的な建物だったりもする。西洋史(中世)でいうところの「皇帝・王の城塞」と「教皇の宮殿」の違いとでもいいましょうか?つまり、邪馬台国の首都は、軍事要塞的な緊張感を持った高層建築物が密集する吉野ケ里遺跡とも言い切れないし、纒向遺跡のような開放的で平面的に巨大な新都市ともいえるかどうか・・・果たして真実はどうなのでしょうかね?「どちらでもなかった」という答えもありますが。

 邪馬台国の位置が分かっておらず、そうした各地の「弥生大名」たちの歴史まで不明な以上は、「邪馬台国と同レベル」の集落遺跡が出れば「ここが卑弥呼の国」と九州、畿内以外でも候補地が乱立するのも無理はありませんね。

縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)の大規模な集落跡が発掘された青森県青森市の三内丸山遺跡(2018年8月18日撮影)

 大阪府和泉市の弥生文化博物館から歩いてすぐの池上曽根遺跡では、王の宮殿か神殿としてもいいくらいの巨大な建物の痕跡が発掘されて復元されています。邪馬台国候補地ではない遺跡でさえ、こんなに立派。木材は縄文時代にまで遡るそうです。縄文時代に建てられたわけではないと思います。地中に埋まっていたものの後代の発見と利用とか。

 また、邪馬台国の弥生時代よりずっと古い青森市の三内丸山遺跡は縄文時代のムラ遺跡ですが、写真の通りの大きな掘立柱の建造物がすでにありました。

隋書・倭国伝 はっきり記述

弥生文化博物館の卑弥呼像(同日撮影)

 結局・・・その場所は謎・・・で締めるしかない邪馬台国論・・・もやもやするけど仕方がない・・・果報は寝て待ちましょう。

 最後に、推古天皇と聖徳太子が小野妹子らを紀元600年から数回派遣した遣隋使でお馴染みの「隋書・倭国伝」には、後漢書や魏志を参考にした上で、使節を派遣した倭国に対して「倭国は邪摩堆やまとに都があり、魏志でいう邪馬台なり」とあります。これをどう思うか。卑弥呼や台与ら女王の邪馬台国と大和王権の連続性の可能性は高まりました。都の場所はどこかは分かりませんよ。もしかしたら九州にあった後、畿内へ東遷した可能性は残りますけれど。

 蛇足ですが、箸墓古墳と大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は発掘調査ができないものなのでしょうかね・・・多くの日本国民が気になってるじゃん!

 愚痴言っておしまい。長く邪馬台国の歴史の旅となりましたが、これで一旦閉じます。次回からは、記紀に戻って、崇神天皇の時代から旅を始めたいと思います。

大阪府和泉市の池上曽根遺跡↓

表紙の写真=弥生文化博物館展示の「中平年銘の鉄刀」のレプリカ(2024年11月22日撮影)

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