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【日本神話⑮】邪馬台国への道~一岐國

 魏志・倭人伝によると「対馬の南の海をわたること千余里、瀚海かんかい(大海=対馬海峡のこと)という名である。一大国(一岐の間違い=壱岐)につく。官を卑狗ひこといい、副官を卑奴母離ひなもりという。四方三百里ばかり」とあって、壱岐にやってきました。島のやや東南に位置する原の辻遺跡は「一岐国の王都」と名付けられ、弥生時代の集落が見事に復元されていました。博物館も併設していたので、邪馬台国からの道程に記述のある「一岐国」の様子をこの目で見ることができました。

長崎県壱岐市の原の辻遺跡。国の大官らが暮らした集落の中心部(2014年6月10日撮影)

 紀元3世紀頃の壱岐の記述ですが、国の長と思われる大官の「卑狗」は対馬と同じ。副官職名も同じ。土地の特徴としては「竹林・林が多く、三千ばかりの家がある」そうです。対馬とは違って、丸い島の壱岐は比較的平坦でした。

原の辻遺跡の望楼建物(同日撮影)

 発掘の成果で、望楼建物が復元されていました。いうまでもなく物見櫓であり、遠くを見る必要があるということは、宗教的・天文学的役割の施設でないとはいえませんが、一般的には見張り台。敵を意識していたのかもしれませんね。

遺跡内に復元された高床倉庫(写真上)とその内部(同下)(同日撮影)

 この高床倉庫があるということで、稲作が行われていました。魏志・倭人伝には「やや田畑があり、田を耕しても(島の人々が)食べるには足りず、南北に行き米を買うなどする」とあります。そのままの意味で、こちらも対馬と同様に、国外との交易も並行して行っていたようです。

 写真の建物は、稲の保管庫というより、祭り用の神器や祭器などを置いておく建物だと案内看板に書いてありました。

住居の外観(写真上)と内観(同下)(同日撮影)

 「長老の家」とか「帯方郡などの使節団用の建物」などと書かれた竪穴住居も複数復元されていました。そうはいっても、外観や内観は他の土地で見たものと全く変わりません。このデザインに土地の差はあまりなさそうです。縄文、弥生時代の住居を見る時、いつも思うことですけどね。間取りの大小はあれども。

 またまた勝手な想像なんですが、進んだ中国文化圏の官僚ら使節団は、この時代の倭を行き来していて、この住居環境に何を思ったでしょうね(笑)

 日本のTVで、アマゾンやアフリカの「部族の家」を訪れたり、数泊する番組がありますが、そんな感覚でしょうか?異文化体験として数泊程度なら別に文句はないけど、豊かで文明度の進んだ大陸と違って「アレも無いし、コレすらも無い」状態。「これが王のいる都!?」・・・でしょうしね。あと、ご飯は口に合ったのでしょうかね?

 「あんな遅れた汚い田舎部族の国、二度と行くかぁ~」って思った人もいたでしょうし、「異文化が刺激的で気に入った」と感じた人もいたかもしれませんね。「もっと進んだ文化を伝えたい」とボランティア精神、開拓精神に富んだ人もいたでしょう。「大陸の宮中内のゴタゴタに嫌気がさした」といって、外目に「貧しくとも牧歌的で平和な暮らし」を夢見て住んだ人もいたかもしれませんね。実際は「倭国大乱」もある場所なのですけどね・・・記録にも確証もないようなことを勝手に想像してしまいます。

土壁の大型建物。集会所か?(同日撮影)

 こちらが大陸使節団の迎賓用だったか?忘れてしまいましたが、集会所のような大型の建物もありました。大陸からの使節団を受け入れたり、大官(卑狗)を中心に、米の収穫計画とか祭りの準備とか政治的なこととか、色々と話し合っていたのでしょうか?

 魏志・倭人伝に書かれた対馬や壱岐の様子は、この程度です。あくまで邪馬台国への道中という感じで、深堀するような記述ではありません。それでも、書いてあるし、土地名が同じということもあって、その様子を想像できるわけですね。

壱岐に残る古墳

百合畑古墳園(同日撮影)

 「邪馬台国時代の一岐国」とは時代が変わってますが、壱岐島内には256基の古墳が確認され、長崎県内423基の60.5%だそうです。古墳は島内全域に点在していますが、この壱岐古墳群といわれる一帯の百合畑古墳園(群)は島の中心部やや北にあり、大小の古墳が集中しています。6世紀頃の築造が多いとのことです。双六古墳など前方後円墳もあります。古墳が多いということは、島内の有力者の墓というだけでなく、大陸と大和王権をつなぐルート上の要衝だったことを感じさせます。大和との関わりの中で壱岐が元社の月読神社も近いですしね。「壱岐の神道」が近畿の大和王権に伝来・吸収されて行きました。

丸い円墳の掛木古墳(同日撮影)

 写真は円墳の掛木古墳で南北22.5メートル、東西18メートル、高さ6.8メートル。内部は横穴式の石室。埋葬品は盗掘された例が多いですが、銅鏡や土器、鉄製品や金製の装飾品などが発掘されているそうです。

 どの古墳も埋葬者の名前などは分かりません。エジプトなどと違い、内部の石室には文字がありませんから。諸説ありますが、地元の豪族である壱岐氏の系譜に連なる墳墓のほか、近畿の朝廷から派遣された大陸交易・防衛の高官・武将の墓とのことです。島内の古墳からは、新羅との関わりを示す発掘品もあるそうです。

丘陵に造られた笹塚古墳(同日撮影)

 「壱岐国風土記」によると、笹塚古墳内には文字があったとのことですが、現在の調査では確認されていません。あったけど失われてしまったのか?そもそもなかったのか・・・

笹塚古墳の石室(上)と石棺(同日撮影)

 それにしても・・・と思いますよね、古墳。文字史料のなさ加減。絵すらも少ない・・・。縄文・弥生時代の土偶や土器を見ても、これまでの記事で紹介したように、分かりやすい絵や、意味や解釈は難しくとも象形といった「表現による情報」はあるわけです。それが、さらに時代が進んだ3世紀後半~7世紀の古墳時代において少ないわけですからね。文字ではないですが、出土品からの情報は鏡や武具、埴輪ぐらい。大陸からの文字とか、文化的な影響はあったはずなのにね。事件や業績の記録や「後世に名を残したい」とは思わなかったのでしょうかね???本当はあったけど失われているのでしょうか???

笹塚古墳から中世の生池城への途中の風景。(同日撮影)

 笹塚古墳からさらに雑木林を抜け、写真は中世の倭寇の城とされている生池なまいけ城です。海賊・海軍で名を馳せた松浦党の本城氏といわれる源壹みなもと・いちが拠点にしたそうです。この形状を見ると、城は円墳に見えなくもないですね。そういった情報は現地の案内看板にはありませんでしたが・・・

 というわけで壱岐の古代・一岐国を後にし、魏志・倭人伝に沿って次に向かうのは、上記の通り、中世には海賊・海軍として名を馳せた松浦党の拠点、古代名で末廬まつろ国へ。九州北部の古代国を巡ります。

原の辻遺跡↓

壱岐古墳群↓

表紙の写真=一岐国の王都・原の辻遺跡

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