【日本神話⑫】神武東征 出立の地
山幸彦(ヤマサチヒコ=火遠理命=ホオリノミコト)の妻・豊玉姫(トヨタマヒメ)は、鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト)を産んだとき、元の姿に戻っていたのを見られたのを恥じ、海神の国へ帰ってしまいました。そこで海神である父・大綿津見神(オオワタヅミノカミ)は、豊玉姫の妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を送り、彼女がウカヤフキアエズを育てました。後にウカヤフキアエズはタマヨリヒメと結婚し、五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)の4人を産みました。
4人は成長すると、次男のイナヒは海神の国へ、三男のワカミネヌは遠方の常世の国へ旅立ったそうです。残されたイツセとワカミケヌはそのまま日向国に残りました。末っ子のワカミケヌノミコトは別名・神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦尊=カミヤマトイワレビコノミコト)といい、後の初代・神武天皇となります。
ある時、イワレビコは「東の地へ行ってこの国を治める政治を行おう」と兄・イツセを誘い、日向国から海へ旅立ちました・・・一説にヤマサチヒコを海神の宮へ導いた塩椎神(シオツチノカミ)がここでも助言したとも・・・そこから後に大和国に入り、初代天皇として即位します。
宮崎県美々津町の自治体名と同じ、古代・美々津の港町が「出立の地」。同時にそこは天皇自ら率いた歴史上(神話だけど・・・)初の海軍ということで、「日本海軍発祥の地」となりました。写真はひどいですね・・・真夜中の訪問となってしまいました。
「日本海軍発祥地」の碑がある立磐神社は、イワレビコが航海の安全を祈願したといわれる場所に後に建てられた神社です。境内には「神武天皇の御腰掛之磐」もあります。字のごとし、です。真夜中にウロウロしている中、これはストロボ使って何とか見られる写真でした。
美々津の港ですが・・・もう一度行かなければいけないですね。ひどい写真。あと、出雲の遺跡や古墳群と同様に「西都原」の古墳群などもやり残しています。両国の神社参拝はまぁまぁ合格点だと思いますが、出雲王国と日向王国の史跡は落第点です。いつか追記します。
イワレビコとイツセは日向国を出てまず、豊予海峡を越え、豊国(大分県など)に上陸し、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)で、地元豪族の兄妹・宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比売(ウサツヒメ)の歓待を受けました。宇沙(宇佐)は古代から有力国のひとつだったようで、この兄弟は神々とその末裔しか登場していなかった日本神話に初めて登場する「人」だそうです。足一騰宮は市街地から南の山中にあるようです。
次に一行は筑紫国の岡田宮(福岡市)に1年。瀬戸内海を東へ進んで安芸国の多祁理宮(たけりのみや、広島県府中町)に7年、吉備国の高島宮(岡山県玉野市)に8年間滞在します。
吉備国を出たイワレビコたちは、海上の速吸門(はやすいのと)という難所に到達します。現在の明石海峡といわれています。いよいよ大和国が近づいてきました。
一行は明石海峡を越えて大阪湾に入り、さらに奥地の河内国楯津(たてつ、東大阪市日下)から上陸しました。しかし、そこで地元豪族である長髄彦(那賀須泥毘古=ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていました。
地理的な補足ですが、古代の大阪市域のほとんどが海でした。大阪城がある上町台地(上の写真では難波宮の場所)が半島のように南から北へ細長く突き出ており、その裾野に陸地がある程度。市域の北半分もほとんど海で、中州のような島がぽつぽつとある感じでしょう。市東部や東大阪市など府北東部も、河内湖と呼ばれる湖のような内海が広がっていました。
やがて淀川からの土砂が州をつくったり、埋め立てたりして現在の大阪市周辺の陸地ができました。ゆえに「河内国」となる。なので、イワレビコたちは大阪湾からさらに海を進んで河内湖の周縁部に位置する楯津(現在は内陸部)に上陸したのでしょう。
イワレビコたちはナガスネヒコの猛攻撃に遭い、兄・イツセは大怪我を負ってしまいました。イツセは「日向の神の子孫である我々が日を正面に陣を張ったのが敗因」と語り、一行は退却し、紀伊半島をぐるっと回って東側から大和へ向かうことに決めました。
しかし、その途中、男之水門(おのみなと、大阪府泉南市)まで南下したときに、傷がもとで兄・イツセは死んでしまいました。イツセは現在の竈山神社(和歌山市)の辺りに葬られました。兄を失ったイワレビコはそれでも歩みを止めず、熊野へ辿り着きました。
宮崎神宮↓
美々津の立磐神社↓
表紙の写真=美々津大橋(2013年12月31日撮影)