【日本神話⑮】邪馬台国への道~投馬はどこ?
現在の福岡県内と思われる魏志・倭人伝に出て来る不彌國から「南の投馬國へは、水行二十日。官は弥弥、副官は弥弥那利。五万余戸」とあります。気になるのは、船に乗る必要が出てきたという点。さらに五万戸は大きいですね。伊都國で一万、奴國で二万ですからね。
その先の邪馬台国へは「南へ水行十日、陸行一月」とあります。投馬國からさらに船で10日かけ、船を降りて陸路で一カ月の時間をかけて着いたようですね。そのまま現代の地図に当てはめると九州の南東の海上になってしまうと前回も紹介しました。記述に誤りがあるのか、当時の中国・朝鮮の人たちの日本列島の地理感覚が正確ではないのか?
実際、14世紀の朝鮮で書かれた日本列島は、対馬と壱岐の先では、九州を最北辺にし、南北縦長の列島が描かれた地図が残っています。日本列島の形は外国人にはあいまいだったとは想像できます。では、邪馬台国はどこなのでしょうか?
この投馬國の次に邪馬台国が出てきます。ここからは推測です。私の自説ではなく、私が読んだ本など研究者の諸説あるうちの幾つかです。参考に朝鮮通信使の経路図を載せておきますが、これもあくまで地理的な参考。ただ、江戸時代における畿内・関東への定番ルートだというだけです。逆に言うと、朝鮮半島から山陰などへ直接行くルートは例外ではないかと思います。基本的に、これが気象条件や海の状態、各地の港や施設状況を鑑みて、一番安定感のあるルートだったのでしょう。「邪馬台国=畿内説」を推しているわけでもありませんよ。
畿内説1=投馬國は鞆の浦の鞆である
「とま」が「とも」に音が近いという、現代の地名に音を当てているだけです。江戸時代における朝鮮通信使が必ずと言っていいほど立ち寄った場所でもあります。福禅寺という高台の寺の對潮楼からの眺めは評判で、「第一の景(形)勝」と呼ばれました。
気になるのは「五万余戸」。伊都國などを凌駕する人口規模の大集落なのかな?当てにならない数字かもしれませんが・・・。鞆の浦の港周辺だけでなく、広島県福山市の弥生遺跡を調べる必要があるかもしれませんが、それほど話題性のある遺跡はあまり耳にしませんが・・・
因みに、邪馬台国とも朝鮮通信使とも関係ありませんが、坂本龍馬の海援隊の船と紀州藩の船とで衝突事故を起こしたのもここです。瀬戸内海では良港のひとつというわけです。もちろん、瀬戸内海に良港は数多くありますけれども・・・
畿内説2=投馬國は但馬である
おなじく「とま」に音が近い「たじま」。「水行二十日」かかったとして、この場合は日本海の山陰地方を横目に見ながら進んだことになりますね。そのルートでダメな理由もありません。現在の豊岡市周辺の盆地を見ると、「五万戸」あってもよさげですね。田畑も豊かです。でも、これも実証する根拠はありません。
雲海で有名な「天空の城」こと竹田城に行く際、たまたま「茶すり山古墳」に立ち寄りました。もちろん、「邪馬台国と卑弥呼」の時代ではなく、大和王権勢力下の古墳時代ですけど。
豊岡市から大阪方面に近づくにつれて、山間の谷、川沿いにわずかに平地があるような土地となります。とはいえ、そういった場所ですらも、有力者の古墳があるものなのですね。但馬も侮れませんね。
畿内説3=投馬國は出雲である
「とま」が「いずも」は少し苦しいか・・・外国人の耳なら「イズモ」が「トマ」と聞こえてもおかしくはないか???っていうか、邪馬台国の読み方もそうですが、現代日本語では無く、当てた漢字に対する古代中国の魏の人たちの正確な発音も知りたいものですね。「とま」は「ツゥマ」や「トゥマ」か「(イ)ツゥ~マ」かも知れませんしね(笑)
「五万余戸」には納得ですね。古代日本において、いわずと知れた山陰の大国。これまで無視されてきたのがおかしいくらい。でも・・・分かりませんね。ここまでは、「南へ水行」は東の間違いではないかという「邪馬台国=畿内」の説に基づいたものでした。もちろん、九州という説もあります。
九州説1=投馬は都萬である
すみません。写真はありません。いつか行ったら再編集して掲載します。どこかというと、宮崎県西都市になります。初代・神武天皇の故郷、日向国。西都原古墳群でも有名です。地名の音が似ているのが根拠。円墳や前方後円墳なども多数残る不思議な一帯です。近くに都萬神社もあります。祭神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)などです。「南へ水行」に忠実に南下してきました。しかし、こうなると、さらに南の邪馬台国は薩摩・大隅辺りか。
その南に敵国である狗奴國があるといいますから、それは屋久島・種子島、奄美大島、沖縄の列島ということになりますね。それで悪い理由もありませんが、さすがに・・・無理筋かな???
邪馬台国と敵対 狗奴国はどこ?
魏志・倭人伝には邪馬台国の様子について記述した後、「女王国(邪馬台国)から北(大陸までの間の地)は戸数や道里は詳述できるが、それ以外の辺境は遠くて詳しく知ることができない」とあります。
この次は、斯馬國、己百支國、伊邪國、都支國、弥奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、対蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國(金印の奴國とは別か)と各国名が列挙されており、ここが女王国(邪馬台国)の境界の尽きる所とあります。
そして、「その南に狗奴国があり、男を王とする。官に狗古智卑狗がある。女王国に属さない」とあって、倭の国の紹介は終わります。敵対していたことも書かれています。そもそも、この争いが魏の皇帝に遣いを出した理由のひとつのようです。
狗奴国の比定地も概ね2説あって、「邪馬台国=九州説」でいくと、球磨川・阿蘇地方を中心とする熊襲の国。つまり現在の熊本県ということになります。「畿内説」なら大和の南の熊野ではないかということになります。
熊襲や隼人は記紀では敵として出て来るので、うってつけの役どころ。熊野だとしたら、神話では神武天皇の味方だったはずなのに、この頃は敵対していたのでしょうか?さて、どちらでしょうね?
というわけで、これ以上はどこにも進めなくなりました。狗奴国までに多くの国があるように、もはや現代の地名を当てはめようとしても無駄ではないか、というくらい「似た音の地名」はどれをとっても複数出てきてしまうのです。各地の弥生遺跡や古墳を調べても手がかりはなし。
この国々の中にはもしかしたら、吉備とか阿波とか淡路、播磨、紀伊、志摩といった古代の有力国名の基になるものがあるかもしれません。九州の熊襲・隼人をはじめ、関東の毛人の野(毛野=群馬・栃木県)や无耶志(=武蔵国)のように、10代・崇神天皇の四道将軍や、12代・景行天皇の子の倭建命(ヤマトタケルノミコト)の登場まで大和王権に敵対してきた国のことを語っているのかもしれません。
知れば知るほど、調べれば調べるほどに深みの泥沼。これが邪馬台国ミステリーというわけです。本当に困ったものです。
ですが・・・ひとつ紹介していない国があります。次回はそこへ。吉野ケ里遺跡へ行ってみましょう。