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【日本神話⑭】神武天皇即位 大和平定

熊野から大和への道

 八咫烏(ヤタガラス)の案内で熊野の山中から吉野川を北上する神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ=後の神武天皇)は、在地の神々(地元の豪族か?)を服従させて大和(奈良盆地)の東に位置する宇陀の地(奈良県宇陀市)に入ります。ここで、兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟に出会います。

奈良県吉野町の吉野神宮周辺の山中(2014年5月5日撮影)

 八咫烏の服従の勧めに、兄は矢を放ってこれを拒否。一方、弟は兄の陰謀をイワレビコらに伝えます。兄・エウカシはイワレビコの家臣である道臣命(ミチオミノミコト=大伴氏の祖先)の軍に敗れました。

 イワレビコら一行は忍坂(おさか=桜井市)の辺りに到着すると、今度は「土蜘蛛」と呼ばれる多数の地元豪族が待ち構えていました。イワレビコは彼らを宴の席に招いて料理でもてなすと、歌を合図に殲滅したそうです。こうして着実に平定への歩みを進めていきました。

畝傍山麓の橿原宮

奈良県橿原市の畝傍山(2013年1月3日撮影)

 山中を出て大和の平野に降りて来たイワレビコら一行は、ここでかつて兄・五瀬命(イツセノミコト)の命を奪った宿敵、那賀須泥毘古(ナガスネビコ)と対峙します。序盤はイワレビコたちは劣勢だったようですが、暗雲が立ち込める中、雲間から一羽の金鵄が一筋の光を放ってイワレビコの弓に止まりました。その光の眩しさにナガスネヒコたちは恐れおののき、降参したそうです。それでも、ナガスネビコはイワレビコを神の子孫とは認めず。恭順もしなかったそうですが、そのうち謀殺されたそうです。

 この際、ナガスネビコたちが祀ってきた神・邇芸速日命(ニギハヤノミコト)が服従しました。または、ニギハヤが高天原から降りてきてイワレビコの後に追いつき従った。とか、ナガスネヒコの妹と結婚して生まれた子が物部氏の祖先である・・・などと記紀に紹介されています。ここらで、大伴氏や物部氏といった、歴史の教科書でも習った古代豪族の名前が出てきました。

お正月の縁日で賑わう畝傍山麓の橿原神宮の参道(同日撮影)

 ナガスネビコら大和の豪族を一掃したイワレビコは大和各地の豪族たちも打ち破り、畝傍山の麓で全軍を前に平定完了を宣言。橿原宮を建てて政務を執り行いました。これをもって初代・神武天皇として即位したとされています。西暦にして紀元前660年2月11日のこと。日本の建国記念日となり現在も祝日です。

橿原神宮の神門(同日撮影)

 神武天皇は日向国にいたときにすでに妻を娶っていたそうですが、大和国にきて改めて皇后を娶りました。豪族の大久米命(オオクメノミコト)が推薦したのが、大和の三輪山の神・大物主命(オオモノヌシノミコト)と三島湟昨(ミシマノミゾクイ)の娘との間にできた五十鈴媛(イスズヒメ=媛蹈韛五十鈴媛・ヒメタタライスズヒメ、伊須気余理比売・イスケヨリヒメとも呼ばれる)。神武天皇との間に3人の子を設けたそうです。

橿原神宮の拝殿(同日撮影)

 というわけで、先に写真を使ってますが、神武天皇ゆかりの橿原神宮。大和三山といわれる北の耳成山、東の天の香具山に対し、西の畝傍山の麓にあります。神武天皇が宮を建てたのがこの周辺とのことです。初代天皇ですからね、大和王権の重要な場所です。

五十鈴媛を祀る畝傍山中の東大谷日女神社の参道(同日撮影)

 耳成山、天の香具山の山中も歩いてみましたが、畝傍山の時は、道に迷ったか何かで山頂まで行けずにグルグルして、橿原神宮の方へ戻ってしまいました。それほどの山ではないと思ったのですが、どういうわけかボケてました。いずれ紹介しますが、天の香具山でもやられちゃいました・・・。こういう神聖な場所にカメラ片手にドカドカ入っていくのがよろしくないんでしょうね・・・。車が傷ついたし・・・。

橿原神宮に隣接する神武天皇陵(同日撮影)

 橿原神宮に隣接して神武天皇陵もここにあります。神武天皇は127歳で崩御したそうです。その話は「神話」じみていて、実在も疑わしいとされているのが現在の歴史学の定説です。その後の9代の天皇までも同じく、神話の域を出ません。

 ですが、天皇家には古から「ここより西の九州・日向の地から東へ渡ってきた一族が祖先である」という話が伝わっていたのは間違いないでしょう。出雲の国譲りや婚姻による部族間の同化もしかり。熊野の豪族に助けられ、各地の荒ぶる神々(豪族たち)を平定して大和王権が誕生したのでしょうね。天皇の周囲を固めた豪族たち視点の歴史や物語も、長い年月の中でごちゃまぜになったと思いますし、最初は敵対して敗れた後、味方になって高官として活躍する一族の話は、世界史では常識的に多い話ですし。結局、古代の天皇家自身も歴史物語が必要と感じた時には「そんな昔のことは本当かどうか分からない」位になっていたことでしょう。

 神武天皇が紀元前600年代(前7世紀)だとして、世界史で見れば、メソポタミアやエジプトは紀元前2500年頃にはジッグラトやピラミッドを建てはじめ、ペルシアやギリシア・ローマ、中国でもすでに文字も持って、神話を終えた後にしっかりと「人間らしい」歴史を記録していた時代に、日本はまだ「神話の中」ですからね。それも紀元5、6世紀になるまで文字史料が国内にほとんどないっていうくらいの後進地です。

 真偽は確かめようがありません。神武天皇のような、大和の王権を確立した傑出した人物や出来事はあったと思います。仮にひとつの血統ではなく、豪族たちの合議制から始まっていたとしても。でも、古墳は残っているわけですし、やっぱり気になりますね。分かる日は来ないといえども・・・。あの「神武天皇陵」には当時、いったい誰が埋葬されたのでしょうね?本当、不思議ですね。ロマンとも言いますが・・・謎は深まるばかりです。それが楽しいところでもあるのですが。

橿原神宮↓

 表紙の写真=橿原神宮の拝殿(2024年4月2日撮影)


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