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【日本神話⑬】神武東征 三月と三羽烏と

 まったく日本神話の話から離れた旅行記になってますが、熊野三社の最後は熊野本宮大社へ。熊野川を遡った山中の川辺にあります。

熊野本宮館展示の熊野本宮大社の参詣曼荼羅(2014年5月3日撮影)

 曼荼羅を見ると、熊野川の中州のような場所に社殿が建てられているのが良く分かります。そして「本宮」の名前が示す通り、「熊野の神社」といえばかつては、ここの本宮大社のことを指したようです。右下の赤鬼が何なのか気になるところではありますが・・・しかし、地形的に歴史上で何度も何度も水害に遭っており、明治22年の大水害以後は、中州の社殿は再建されず、高台の方の社殿のみ現存しているそうです。まず、そちらを見に行きました。

八咫烏と熊野本宮大社・上社

和歌山県田辺市の熊野本宮大社へ続く参道前の大鳥居(同日撮影)
熊野本宮大社へ続く参道(同日撮影)

 写真左の大きな幟旗に神社の家紋である三本足の八咫烏(ヤタガラス)が見えます。これこそ、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ=後の神武天皇)を大和まで導いた烏。神話では高天原の天照大神(アマテラスオオミカミ)と高御産巣日神(高木神=タカミムスビノカミ)に遣わされたとあります。

熊野本宮大社境内の八咫烏を乗せた黒いポスト(同日撮影)

 八咫烏ということで黒い鳥をイメージしますが、実際は何者だったのかと想像しますね。神武天皇の大和平定に際する功績を認められ、子孫の剣根命(ツルギネノミコト)が葛城国造(大和国南西部の知事)に任命されています。神か人であるとするなら、道案内や偵察、斥候役もこなしたことから、鳥や烏のように比喩されたのでしょうか?不思議な格好で記録されていますね。

 「三本足」の表現については、古事記にも日本書記にもそのようには記されておらず、後の時代の朝鮮や中国文化の神獣のイメージが当てられたそうです。私はてっきり、三本足なだけに「熊野三人衆」とか「熊野三兄弟」みたいな豪族三党がいたのかと思いましたよ。違うようですね。

熊野本宮大社の拝殿(同日撮影)
熊野本宮大社拝殿脇の新門(同日撮影)

 よくよく見ると、新門の上部に飾られたしめ縄も「三本足の八咫烏」でした。しかし、熊野本宮大社の主祭神は八咫烏ではなく、家津美御子大神(ケツミミコオオカミ=スサノオノミコトと同神)、熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)、熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)です。

家津美御子大神などを祀る熊野本宮大社の本殿・上四社(同日撮影)

 社の創建年代は不明な点が多いそうですが、神武天皇が訪れる前には存在したとも。10代・崇神天皇の年代に整備されたそうです。でも、崇神天皇在位の年代が西暦何年かは諸説あり、これもよくわかりませんね。紀元3世紀とも、紀元前1世紀ともいわれますし・・・。

三つの月が舞い降りた大斎原

曼荼羅絵はじめ様々な資料を展示する熊野本宮館(同日撮影)

 賑わっていた本宮大社の社殿などから、今度は熊野川の方へ降りてきました。前述の通り、明治期に熊野川の大水害で本宮大社の社殿は喪失してしてしまったのですが、それは中社、下社だそうです。上社が先に紹介し、現在も残る高台の方のお社だそうです。

熊野川の中州に建てられた熊野本宮大社の模型(同日撮影)

 これがあった当時に訪れたかったですね。模型から想像するだけでも、その荘厳さを感じます。水害多発地帯に建ててしまうのはどうかとも思いますが、それでも霊験あらたかな場所なのでしょう。なぜ、頑なまでにその地を選んだのか?気になるところですね。

かつて熊野本宮大社の中社と下社があった熊野川中州の大斎原(同日撮影)

 大斎原と書いて「おおゆのはら」と読みますが、そこはかつて、熊野三神が舞い降りた場所なんだそうです。崇神天皇の時代、ここにあった巨木に月が3つ舞い降りたそうです。

 熊野の地を治めた国造(知事)の祖先神である天火明命(アメノホアカリノミコト)の子が、熊に遭遇して気を失っていた神武天皇を見つけて神剣「布都御魂(フツノミタマ)」を献上した高倉下(タカクラジ)。その子の熊野連(くまのむらじ)が、舞い降りた月に気づいたそうです。

 その月に尋ねると、真ん中の月がケツミミコオオカミであり、両側の月がそれぞれ、クマノハヤタマノオオカミとクマノフスミノカミであると名乗ったそうです。そして、この地に社を建てて三神を祀るよう指示したのが、熊野大社の始まりだそうです。

大斎原に残る社殿の後。写真右に中社・下社代わりの石祠(同日撮影)

 こうした逸話から、ここに社殿が建てられたということですね。今は無くなってしまった中社と下社の代わりとして石造の祠のようなものがありました。正面左が中社、右が下社の神霊を祀っています。といいつつ、正面から見た石祠の写真を撮り忘れてしまいました(笑)

 後の時代、熊野国造の初代には天火明命から連なる高倉下の子孫の大阿斗宿裲(おおあとのすくね)が就任したそうです。国の長官役は神社を守ってきた一族が担ったということですね。源平合戦では、熊野の水軍が源氏に味方したそうです。

熊野本宮館に展示されていたサッカー日本代表のエンブレム(同日撮影)

 そうそう、忘れてはならないのが、八咫烏といえばサッカー日本代表のエンブレム。日本サッカー 生みの親といわれる中村覚之助(明治11ー39年=西暦1878ー1906年)が和歌山県那智町(現・那智勝浦町)出身で、柔道の創始者・嘉納治五郎が校長を務めた東京高等師範学校(現・東京大学)在学中、フットボール部を創設し、競技を日本に広めた第一人者であることに由来するそうです。

 日本サッカー協会が設立された昭和6(1931)年、協会のマークも作ろうとしたときに、中村の出身地にちなみ、神武天皇を導いた「八咫烏」をモチーフにデザインされたそうです。

大斎原の真上を飛ぶ三羽のカラス(同日撮影)

 というわけで、熊野三社を1日で巡ってきました。大斎原を詣でてすっかり日暮れ。月はまだ見えませんでしたが、見上げると三羽のカラスの姿がみえました。これも神様の遣いでしょうか?どこへ導いてくれるのでしょうかね?

 私の実際の旅では、この後は大和国には行かず、南下して山を下り、田辺市街地へ着いた頃には真っ暗でした。宿の予約もさぼって風任せにしていたのですが、もう面倒になってネットカフェに滑り込んでそのまま眠ってしまいました。その後は海南市や和歌山市へと抜けましたとさ。

 紀伊半島の熊野大社周辺は、日本列島の中でも陸地の突き出たような場所にあり、大都市と大都市をつなぐ大動脈からは外れていることもあって、来るのも大変でしたね。房総半島や能登半島の先端は「どこかへ向かう途中に寄る」という行き方がしずらいですしね。その場所へ行って戻るという感じになりますし。

 中々、再訪の機会が得られませんが、それでも思い出深い旅となりました。それにしても、飲まず食わずで旅をしていましたが、好奇心が空腹を忘れさせますね。私の旅ではよくあります。途中で軽食をかじった程度です。「旅の食レポ」もありません。少しはお金を落とせと思いますね。急ぎ過ぎました。でも少ない休みで弾丸していましたからね。若さも手伝って・・・元気なことです。

 本題の日本神話の方では、ようやく大和国へ入ります。

熊野本宮大社↓

表紙の写真=熊野本宮大社・大斎原の大鳥居(2014年5月3日撮影)


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