見出し画像

イギリス生活25週目ふりかえり

生きるという事はきっと「思い出」を作る事なのだ

by F.F(フー・ファイターズ)

上記の言葉が響いた1週間だった。

これまでのふりかえりはこちら↓

1週間のスケジュール

◯土日

朝、以下の記事を執筆している際、知り合いの方から連絡があった。

以前仕事を一緒にしていた同僚であり、友人でもある人物が亡くなったのだ。記事で触れるかは正直迷ったが、感じたことを書いておく。

笑いを愛し、様々なギャグを周囲に披露し続けた人だった。土曜日は、そんな彼の過去の映像や投稿などを見返していた。

映像を見返していると不思議と実感が湧かない。今でもくだらないギャグやメッセージを送ってくるのではないかとさえ思う。

人が本当に亡くなるのは、忘れ去られた時だという言葉を聞いたことがある。どこで聞いたのか思い出せないので、調べてみた。

「人が本当に亡くなるのは、忘れ去られた時だ」という言葉は、メキシコの文化に根付いた死生観を反映しています。特に有名な出典は、映画『リメンバー・ミー』(原題: Coco)で使われている概念です。この映画では、故人を思い出し続けることの重要性が描かれており、家族や友人に忘れ去られた時こそが本当の死であるとされます。

ただし、この考え自体は映画の前から存在し、メキシコの伝統的な祭り「死者の日(Día de los Muertos)」とも深く関わっています。この祭りでは、故人を忘れないために写真や思い出を語り合い、彼らの魂が再び家族の元に戻ってくると信じられています。

AIが生成

本当か定かではないが、メキシコの死者の日が由来だったようだ。

日本のお盆とも似ているが、死者の日は以下のようなもの。

メキシコの「死者の日」(Día de los Muertos)は、毎年11月1日と2日に行われる、亡くなった愛する人々を追悼する伝統的なお祭りです。

この日は、家族や友人が故人を思い出し、彼らの魂が再びこの世に戻ってくることを祝います。死者の日は、メキシコ独特の文化的行事で、カトリックの影響と先住民の死生観が融合したものです。

主な特徴
オフレンダ(Ofrenda)
各家庭や公共の場で「オフレンダ」と呼ばれる祭壇が設けられます。ここには亡くなった人々の写真や遺品、彼らが好きだった食べ物や飲み物が置かれます。また、マリーゴールド(cempasúchil)の花やキャンドルが飾られ、死者が迷わずに戻ってこれるよう道を照らす役割を果たします。

カラベラ(Calavera)
死者の日を象徴するものの一つが「カラベラ」と呼ばれる骸骨や頭蓋骨です。シュガースカル(砂糖菓子で作られた頭蓋骨)は、明るい色で装飾され、祭壇や墓に置かれます。カラベラのデザインはユーモラスで陽気な雰囲気があり、死を恐れるのではなく、笑顔で迎えるという考え方を象徴しています。

カトリックの影響と先住民の伝統の融合
「死者の日」は、カトリックの万聖節(11月1日)と万霊節(11月2日)に由来していますが、メキシコのアステカ文明やその他の先住民文化の影響を強く受けています。アステカの人々は死後の世界を信じており、死は人生の一部として捉えられていました。

パン・デ・ムエルト(Pan de Muerto)
「死者のパン」と呼ばれるこの伝統的なパンは、オレンジ風味で、丸い形をしており、上には骨の形を模した装飾がされています。家族や友人が集まり、このパンを共に食べて故人を偲びます。

墓地での集い
家族は墓地を訪れ、墓を清掃し、花やキャンドルで飾り、故人と一緒に時間を過ごします。音楽を演奏したり、故人の好きだった食事を持ち寄ったりして、死者と再会する象徴的なひとときを祝います。

精神的な意義
メキシコの死者の日は、悲しみや死への恐怖を克服し、故人とのつながりを再確認する機会です。この日は、死を自然なサイクルの一部として受け入れ、愛する人々の魂がまだ家族と共にあるという信念を祝う、希望に満ちた祭りです。

死者の日は、ユネスコの無形文化遺産にも登録されており、メキシコの文化を象徴する重要な祭りの一つとなっています。

死を恐れるのではなく、笑顔で迎えるという上記の考え方は、笑いを愛した彼に合うようにも思う。

週末に見ていた作品の中にもこんな言葉が登場した。

生きるという事はきっと「思い出」を作る事なのだ

by F.F(フー・ファイターズ)

周囲にたくさんの笑いと思い出を残してくれた人だった。

だからこそ彼は確かに生きていたし、今でも、そしてこれからも皆の中で生きていくのだと思う。

自分も抱えきれないくらいの思い出を作り、それを残せるような人生にしたい。

◯月曜〜金曜

基本的には毎日仕事。

いつもと違うオフィスに出張したり、新たな取り組みが始まったりと色々とあったが、今回は割愛。

仕事以外の時間では、色々と記事を執筆した。

以下はなぜ色々とnote記事を書くのかについてまとめた記事。

最近は朝も冷え込んできて、秋の訪れを感じる。

いや、秋を通り越して冬と言っても良いかもしれない。

オフの日、朝の散歩をしていると、空が雲ひとつないことに気が付く。

そこで思い出したのが、以下の作品だ。

小学生の頃の教科書に載っていて、とても印象に残っている。音読大会などもあり、何度も繰り返して読んだように思う。

いつぶりだろうか。懐かしくなって雲ひとつない青空に向かってかげおくりをしてみた。

とても悲しいお話だけれども、かげおくりを「大きな記念写真だこと」と表現したのがとても素敵だなと思う。

その後、作者のインタビュー記事を読み、色々と感じることがあったのでメモしておく。

180度の転回
8月15日―。日本の敗戦という形で、戦争が終わった。終戦から2か月後の1945年10月には、あまんさんの居住していた大連(中国)でも学校が再開されることとなる。

戦前には、植民地主義政策および戦争における日本の正当性を強調していた学校教育。戦後、学校に戻ると、教師たちは真逆の事柄を語っていた。あまんさんたちにとって、これは、さながら「180度の転回」であった。

「あれは本当に辛かった。生徒も辛かったけれど、今思うと先生たちも辛かったと思うよ。戦前と違う先生ではない、同じ先生が違うことを教えるわけですから」とあまんさんは当時の複雑な事情を推察する。

「教育そのものが全く変わりましたからね。日本人は敗戦国民と呼ばれていたので。もし、うっかりしたことを言えば、先生たちの命も危なかったんじゃないかなと思う」

「180度の転回」は、あまんさんら、当時の少年少女たちにとって、あまりにも大きな、途方もない出来事であった。

「『日本が正しいに決まっている。日本が勝つに決まっている』と大きな声で言っていた人たちは、大きな声で反対のことを言いました」

歴史や地理、武道といった授業内容は消え、代わりに、英語やロシア語、中国語の授業がはじまった。あまんさんにロシア語を教えていたのは、本来、数学を担当していた教師。教える側も勉強をしながら、手探りの状態だった。

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(前編)

それまで正しいとされてきたことも、前提が変われば全てひっくり返るという話。

自分はこれまで教育業界で働いてきたが、前提を疑うということの大切さを思い知らされる一文だ。

教育という分野は、グローバルに展開したり、標準化するのが難しい分野だなと思う。

英語などの言語学習や、数学の定理のように、普遍的なものがある分野は良いが、歴史や科学などは、どの角度から見るかによって変わる部分が多々ある。

西洋的な歴史観なのかどうかや、宗教や文化などの違いにより、受け入れにくい分野があったり。

また、政府が変わると教育制度などが大きく変わる国もあるらしく、前提が覆るということが今でも起こるらしい。(記憶が定かではないが)

今教えられていること、教えていることの前提を疑うということは引き続き心がけていきたい。

「知らない」は罪
「新聞にも出ていたし、学校でも習ったし。もう本当にびっくりしました。国が逆さまのことを言うんだって。だからもう今は驚かないのよ」
現在、国際社会から強い批判の声があがっている大国ロシアのウクライナに対する軍事侵攻。そこでは、国家間の現状認識の違いが大きな問題のひとつとなっている。あまんさんは、そこにかつての自分たちの姿をみるのだという。

「あれも、本当は侵攻されているウクライナの人々が爆破したといわれて攻撃されているわけでしょう。今は昔とちがって色々と知る方法があるじゃないですか。でも、海外でも私みたいに高齢の人は知る方法がないのかもなって思います」とあまんさん。

「私は国がそういうことをするんだっていうことを若いお母さんだった時に知って仰天したし、そこでそれまでの経緯を初めて知ったのよ。恥ずかしいね。だからそれ以来、私は今でも『満州』っていうことにこだわっています。」

家族や先生、友人たちに囲まれ、「おはなし」に親しみ、異国の青空を眺めていた、幼少期のかけがえのない日々。だが、それは、本来その土地に住んでいた人々を追いやった上で成り立つものだった。

「満州で生まれた私が、いっぱい楽しい思いをして、みんなに可愛がられていたときに、例えば中国の人たちが何をしていたのか。どんな生活を送っていたのか、何も知らない自分がいるので。子どもの時は『知らない』で許されることがあるけれど、大人になって『知らない』ってことは、やっぱりひとつの『罪』だと思います」

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(前編)

戦争を経験した作者の方が仰るからこそ、余計に重みがある言葉だ。

自分も子どもたちから「なぜ学ぶ必要があるのか?」と聞かれた時の自分なりの答えのひとつとして、上記に近いことを言っていた。

物事を知らないと無意識に人を傷つけてしまったりすることもある。何かについて知ることはマナーでもあり、他者への配慮でもあると思う。自分はまだまだだけれども。

戦争を描く。きっかけはない
『ちいちゃんのかげおくり』だけではない、『おはじきの木』や『鳥よめ』、『あるひあるとき』など、あまんさんの作品の多くに、戦争の悲惨さと平和の尊さが描かれている。

「きっかけは何もないの。だって私が子どもの頃、戦争があったわけですから。木の年輪のようになっている人生で、特に子ども時代というものは、自分の心を言葉にまとめることができない時代。私自身もうまく言葉にできなかった想いをいっぱい持っていたわけです」

だからこそ、言葉が自由に使える今、戦争について書くという行為はごく自然なことなのだという。

「『書かなければならない』ではなくて、『書かずにはいられない』ということだと思います。私の場合、子ども時代の幸せだったことと同様に、戦争も書かずにはいられない。それが今の子どもたちに響いてくれたらなと」

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(後編)

言葉にできなかった想いを表現したくて、言葉が自由に使える今、それについて書かずにはいられないという部分は非常に共感する。

なぜ?どうして?という思いを喚起することが多いあまんさんの作品。子どもたちの手紙を受け取った際に、あまんさんが気をつけていているのは、「答えを与えない」ということである。

・『ちいちゃんのかげおくり』で、ちいちゃんが死んだ公園はどこにあるのか教えてください

・『白いぼうし』に出てくる女の子の正体は蝶々ですか?

40年以上も前に子どもたちから寄せられた質問を、あまんさんは今も覚えている。「返事は書くのよ。そのまま知らんぷりなんてことは絶対にしません。『宿題なので早く返事をください』なんて手紙もよくありました。その度に私は、『あなたはどう思う?あなたが思う通りで良いのよ』って書きます」と明かす。

「それは、作者が声を出してはいけないって私が思っているから。作品というのはそれぞれの人の人生で読むもの。例えば、ある作品がすごく好きだったとして、10代の終わりと30代、同じものを読んだところで感じ方が少し違う。その人の生き方で本の読み方が変わってくるわけで、それが繰り返し読む喜び、変化する喜びだと思います」

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(後編)

この方の子どもへの関わり方は本当に素晴らしいなと思う。

答えを与えず、その子の想像力に委ねる。自分なりの答えを尊重する。自分が大切にしたい関わり方と似ていて、とても参考になる。

作品はそれぞれの人生で読むものという一文も好きだ。まさに自分がそうで、児童文学や子どもの頃に見た作品を見返すと、より一層新鮮な気づきがあったり、子ども向けとは思えない深いテーマに触れられたりする。

著者、本との対話を通して、自分の変化を感じられることが読書の喜びのひとつだ。

今を生きる人たちへ
戦争や疫病に対する恐怖、将来や社会に対する漠然とした不安、はたまた山積される個人的な問題の数々。「今」という不安定な時代を心細い気持ちで生きている人たちも多いのではないだろうか。逆に、貴重な日々を、大切な仲間たちと充実して過ごせていると感じることもあるだろう。90歳のあまんさんが、そんな若い人々へメッセージをくれた。

「人生には光の時代も、影の時代もあります。光の中を歩いているのだとしたら、影のことを想ってほしいと思う。ひょっとしたら自分が影の中に他人をいれているかもしれない。私自身、子供の頃、光の中で楽しくしていたけれど、中国の人々の生活を影に追いやっていたわけで。それに気づかなかった悲しさとか辛さをずっと抱えているので。でも、いつも光の中を歩いているということではないのですよ、生きるっていうことは。だから、影の中を歩いているときは、必ず光の世界があるっていうことを忘れないでほしい。これから人生がはじまるよ。いっぱい良いことがありますよ」

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(後編)

影送りと絡めた一文。

光の中を歩いている時に影のことを想う。他者への想像力をどれだけ働かせることができるのかは、どれだけ物事を知っているか、どれだけのことを経験してきたかにも関わってくると思う。

物事の光と影に想いを馳せられるような人になりたい。

今日の英語フレーズ

| English Expression | Explanation                                                                                         | Example Sentence                                               |
|--------------------|-----------------------------------------------------------------------------------------------------|----------------------------------------------------------------|
| **integrate**      | To combine one thing with another to become whole, or to make parts into a whole.                   | "We need to integrate the new software into our existing system to improve efficiency."  |
| **Dude**           | A casual term used to address someone, often expressing familiarity.                                | "Dude, did you see that incredible game last night?"           |
| **Leave it to me.**| A phrase used to assure someone that you will handle a task or situation.                           | "You need someone to organize the event? Leave it to me, I've got everything covered."   |
| **Stay humble**    | An encouragement to remain modest, grounded, and not become arrogant, regardless of success or power.| "Even after all your achievements, it's important to stay humble and remember your roots." |

印象的だったこと

読み聞かせ
以下の記事にこんな一節が出てくる。

読み聞かせの大切さ
現在は動画やデジタルデバイスの普及に伴い、子どもたちが「おはなし」に触れる機会も減ってきている。東京ガスが実施した最新の調査によると、絵本の読み聞かせをしている親の約7割が何らかの苦労や負担を感じており、小学校中学年以降の児童へ本の読み聞かせをしている親は全体の4割以下にとどまるという。

だが、あまんさんは、あくまで「“人の声”でおはなしをする」重要性を感じている。

「10年ほど前、講談社で復刊された昔の絵本を読んでいたら、母の膝の上にのり、声が後ろから聞こえたような気がしました。当時の記憶が突然よみがえったのです。『本は自分で読みなさい』という人もいるけれど、私も小学6年生になるまで、親や先生が本を読んでくれたのが嬉しかったし、読んでもらった喜びを90歳になった今でも覚えています」

《平和を語れば》第3回 『ちいちゃんのかげおくり』作者 あまんきみこさん(前編)

小学校に上がる前、幼少期に読み聞かせをしてもらったことを思い出したし、それが文章を好きになった原体験になっているのかもなと思った。

人と人との触れ合いを通した体験や思い出は、より深い情報として記憶に残るのだろうなと思う。

心理的な時間の相対性
新しいことをインプットしまくる1日と、そうでない1日の体感時間が圧倒的に違う。なぜこうしたことが起きるのか調べてみた。

その日に経験したことによって体感時間が短く感じたり、長く感じたりする現象は、アインシュタインの相対性理論で説明される物理的な時間の相対性とは異なります。これは主に心理的な時間の相対性に関連しています。

つまり、私たちが感じる「時間の流れ」や「時間の長さ」は、脳がどのように情報を処理し、経験を記憶するかに大きく依存しているということです。

体感時間が変わる理由
1. 新しい経験や刺激の多い活動
新しいことを学んだり、刺激的な体験をしたりする日ほど、時間が長く感じられることがあります。これには以下の理由があります:

脳の活動量: 脳は新しい情報を処理するのに多くのエネルギーを使い、そのプロセスが密度の高い記憶を形成します。その結果、体験が豊富な日々は「情報量が多い」と感じられ、後から振り返るとその日が長く感じられるのです。

注意の集中: 新しいことやチャレンジングな状況では、私たちの注意が集中しやすくなります。注意を集中している間は時間の流れが遅く感じる傾向があります。

2. 単調な活動や退屈な日
逆に、単調な作業や退屈な時間を過ごすと、時間が非常に長く感じられる場合もあります。これは以下の理由に起因します:

注意の欠如: 退屈な状況では、注意が分散し、時計を見たり、時間を気にしたりする頻度が増えます。これによって「まだこんなに時間が経っていないのか」と感じ、時間が進まないように感じることがあります。

後から振り返った場合: 退屈な日々は、後から思い出そうとしても印象に残る出来事が少ないため、「あっという間に過ぎた」と感じることがあります。記憶が少ない日々は、時間が短かったように思えるのです。

3. 習慣化された行動
毎日同じようなルーティンで生活していると、時間があっという間に過ぎたように感じやすくなります。これは、脳が既に学習した行動やパターンを効率的に処理するため、特別に注意を払う必要がなくなるからです。この結果、体感時間が短く感じることがあります。

4. 年齢による体感時間の変化
多くの人が、年齢を重ねるにつれて時間が早く過ぎるように感じると報告します。これも、心理的な時間の相対性に関係しています。

新鮮さの減少: 子供の頃は新しい経験が多く、脳が多くの情報を処理します。しかし、大人になると多くのことが既知であり、日常が予測可能になり、脳が新しい刺激を感じにくくなります。そのため、時間が早く過ぎるように感じられるのです。

時間の割合: また、年齢が増えるほど、1年の相対的な割合は小さくなります。たとえば、10歳の子供にとって1年は全人生の10分の1ですが、40歳の大人にとっては40分の1です。この感覚的な差が、年を取ると時間が早く感じられる一因です。

心理的時間の相対性の科学的な背景
心理的な時間の感じ方は、脳の様々な領域(特に前頭前皮質や海馬)が関与しています。これらの領域は、情報処理や記憶の形成、注意のコントロールに関連しています。脳がどれだけ情報を「圧縮」するか、またはどれだけ「拡張」して処理するかによって、私たちが時間をどう感じるかが決まります。

まとめ
経験によって体感時間が長くなったり短くなったりする現象は、物理学的な時間の相対性ではなく、心理的な時間の相対性によるものです。新しい経験や刺激の多い出来事は時間を長く感じさせ、退屈で単調な活動は時間を短く感じさせます。また、年齢や習慣も体感時間に影響を与えます。

AIが生成

どこまで上記が根拠のある話なのかはわからないが、感覚として近しいところは多々あった。

自分としては、常に学び続けて新しいことを日々吸収し、太く長く生きる人生にしたいとずっと思っている。

イギリスに来た理由の一つでもある。

来週の目標

旅や仕事の経験を引き続き記事化する


ここまで読んでくださりありがとうございました。

今週は生き方などについて改めて考えることが多い週でした。


※記事内の画像は筆者個人が撮影したものか、生成AIにて生成しています。

読んでくださり、ありがとうございます!記事がいいなと思ったら、よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!